慎思録 / 巻之一
學將以知道也。聖人詢詢垂敎。可謂至矣盡矣。欲使學者知道也。後世學者益多。而不能知道者。何邪。葢學者須以立志爲本。其所志者何也。以知道爲志也。學者雖博聞廣覽。然無志于知道。而徒以章句爲勤者。其失有三焉。曰溺詞章。泥訓詁。止記誦。此三者之習。雖終身讀書。然不能知道。可謂勞而無功也。且雖有志于求道。而無三失。然不能知道者。其失亦有四焉。苟不專一于聖學。則志分于他岐。故迷而不能知道。其失一也。不博學之。則孤陋寡聞。而不能知道。其失二也。不致思精詳。則粗畧而不能知道。其失三也。如曲士之束于敎。則雖爲學專一。然拘泥而不能知道。其失四也。須無斯數之失。而以爲知道之工夫也。
新字:学将以知道也。聖人詢詢垂教。可謂至矣尽矣。欲使学者知道也。後世学者益多。而不能知道者。何邪。葢学者須以立志為本。其所志者何也。以知道為志也。学者雖博聞広覧。然無志于知道。而徒以章句為勤者。其失有三焉。曰溺詞章。泥訓詁。止記誦。此三者之習。雖終身読書。然不能知道。可謂労而無功也。且雖有志于求道。而無三失。然不能知道者。其失亦有四焉。苟不専一于聖学。則志分于他岐。故迷而不能知道。其失一也。不博学之。則孤陋寡聞。而不能知道。其失二也。不致思精詳。則粗略而不能知道。其失三也。如曲士之束于教。則雖為学専一。然拘泥而不能知道。其失四也。須無斯数之失。而以為知道之工夫也。
書き下し
学は将に以て道を知らんとするなり。聖人詢詢として教へを垂る、至れり尽くせりと謂ふべし。学者をして道を知らしめんと欲するなり。後世学者益多くして、道を知ること能はざる者は、何ぞや。蓋し学者は須らく志を立つるを以て本と為すべし。其の志す所の者は何ぞや。道を知るを以て志と為すなり。学者博聞広覧すと雖も、然れども道を知るに志無くして、徒らに章句を以て勤めと為す者は、其の失三つ有り。曰く、詞章に溺る、訓詁に泥む、記誦に止まる。此の三者の習ひは、終身書を読むと雖も、然れども道を知ること能はず。労して功無しと謂ふべきなり。且つ道を求むるに志有りて、三失無しと雖も、然れども道を知ること能はざる者は、其の失亦四つ有り。苟も聖学に専一ならざれば、則ち志他岐に分かる。故に迷ひて道を知ること能はず。其の失一なり。之を博学せざれば、則ち孤陋寡聞にして、道を知ること能はず。其の失二なり。思ひを致すこと精詳ならざれば、則ち粗略にして道を知ること能はず。其の失三なり。曲士の教へに束ねらるるが如きは、則ち学を為すこと専一なりと雖も、然れども拘泥して道を知ること能はず。其の失四なり。須らく斯の数の失無くして、以て道を知るの工夫と為すべし。
現代語訳
学問は道を知るためのものです。聖人は懇切に教えを残し、至れり尽くせりと言えます。学ぶ者に道を知らせようとしたのです。後世、学ぶ者はますます多いのに、道を知ることができないのはなぜでしょうか。学ぶ者は志を立てることを根本としなければなりません。何を志すのか。道を知ることを志とするのです。広く聞き多く読んでも、道を知ることに志がなく、ただ章句を務めとする者には、三つの失があります。詞章に溺れること、訓詁にとらわれること、暗記にとどまることです。この三つの習いでは、一生本を読んでも道を知ることができず、苦労して成果がないと言うべきです。また道を求める志があり、三つの失がなくても、道を知ることができない者には、さらに四つの失があります。聖人の学に専念しなければ、志がほかの道に分かれ、迷って道を知ることができません。これが第一の失です。広く学ばなければ、狭い見聞にとどまって道を知ることができません。これが第二の失です。考えを細かく詳しく尽くさなければ、粗雑になって道を知ることができません。これが第三の失です。偏った学者が自分の受けた教えに縛られるように、学問に専念していても凝り固まって道を知ることができない。これが第四の失です。これらの失をなくして、道を知る工夫としなければなりません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之一或ひと疑ふ、世間書を読むの人多し。往往身心に益無き者は、何ぞやと。曰く、学を為すは志を立つるに在り。苟も志無きの人は、広覧博聞すと雖も、己に益無し。然れども志なる者は己に由りて有する所にして、別人に管せず。須らく自己奮起すべし。故に皮日休云ふ、聖人は人に道を与ふれども、人に志を与ふること能はずと。夫れ六経四書の載する所の者は、聖人の道なり。六経四書の文字は、聖人の言なり。志有る者は、其の言を誦して其の道を求む。益有る所以なり。志無き者は、其の言を誦して其の道を忘る。益無き所以なり。凡そ学ぶ者は、躬行して之を心得することを貴ぶ。苟も聖人の道を求むるに志無くんば、則ち躬行心得すること能はず。然らば則ち博学強記し、日日経義を説くと雖も、奚ぞ其の身に益有るべけんや。
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『正法眼蔵随聞記』巻五亦云く、仙人ありき、或人問て云く、如何がして仙を得ん、仙人の云く、仙を得んと思はゞ仙道を好むへしと、然れば学人も仏祖の道を得んと思はゞ、須く仏祖の道を好むへし、
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『慎思録』巻之四善く学ぶ者は、志倦まず、心盈たず。一善の聞かず、一理の知らざること、歉然として飲食の飽かざるが如し。此れ何に繇りて然るや。誠に道は限り無くして、事は尽くること無きを以てなり。君子の平居無事の時に当たりては、大率衆人と異なること無し。艱難多事に遇ひて、而る後に其の才器の蘊蓄する所、優れて且つ長ずることを見る。所謂盤根錯節に遇はざれば、以て利器を別つに足ること無きなり。
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『慎思録』巻之六古来本邦の文学の士、往往詩文を作為することを喜ぶ。其の工夫甚だ苦し。然れども其の文字多しと雖も、中華の作に似ず、作文の法度無き者多し。惜しむべし、箇の無益の閑労擾を做し、枉げて心力を費やすことを。若し果たして道を求むるの志有らば、断じて此に到らじ。
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『慎思録』巻之五凡そ事は必ず咨訪して後に明らかなり。故に曰く、問ふことを好めば則ち裕かなり、と。必ず経歴して後に熟す。故に曰く、一事に躓く者は一智を長ず、と。苟も咨訪せずして自ら用ひ、経歴せずして妄りに行へば、亦殆ふいかなと曰ふ。朱子曰く、学は道を知るを以て本と為す。道を知れば則ち学純にして心正し、と。愚謂ふ、是れ学を為すの本旨なり。学者の志を立つる、宜しく此くの如くなるべし。蓋し学は将に以て道を知らんとす。苟も学を為して、道を知るを以て本と為さずんば、博学広聞すと雖も益無く、徒に心思を労するのみ。所謂多しと雖も亦奚を以て為さんといふものなり。夫れ道を知るは固より極めて難し。然れども道を知るを以て志と為さざれば、則ち学を為すこと駁雑にして純一ならず、心を立つること邪僻にして平正ならず。其の本を失ふに因るなり。然らば則ち宏才博聞の人に逾ゆる有りと雖も、儒者の学と為すべからず。百家衆技の流と相同じきを免れず。此れ即ち俗学の習ひにして、亦貴しと為すに足らず。若し乃ち朱子の言を以て之を反覆して言はば、道を知らんと欲すれば、則ち先づ須らく学純にして心正しきを要すべし。苟も学雑にして純一ならず、心正しからずして邪僻なれば、則ち道と相乖戻す。何を以てか道を知るを得んや。
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『呻吟語』内篇・存心・士の尊ぶ可く貴ぶ可き所以は、道有るを以てなり讀書人は只だ是れ個の氣高くして、人の己を尊ぶを欲し、志卑くして、人の己を利するを欲す。便ち是れ至愚極陋なり。只だ四書六經の千言萬語、人に教ふるは是くのごとくなるか是くのごとくならざるかを看よ。士の尊ぶ可く貴ぶ可き所以は、道有るを以てなり。這般の見識、什麼の尊貴す可き處か有らん。小子之を戒めよ。