慎思録 / 巻之一
或疑。世間讀書之人多矣。徃徃無益于身心者。何也。曰。爲學在立志。苟無志之人。雖廣覽博聞。無益于己。然志者由己而所有。非管別人。須自己奮起。故皮日休云。聖人與人道。不能與人志。夫六經四書所載者。聖人之道也。六經四書之文字者。聖人之言也。有志者。誦其言而求其道。所以有益也。無志者。誦其言而忘其道。所以無益也。凡學焉者。貴躬行心得之。苟無志求聖人之道。則不能躬行心得。然則雖博學强記。日日說經義。奚可有益于其身乎。
新字:或疑。世間読書之人多矣。往往無益于身心者。何也。曰。為学在立志。苟無志之人。雖広覧博聞。無益于己。然志者由己而所有。非管別人。須自己奮起。故皮日休云。聖人与人道。不能与人志。夫六経四書所載者。聖人之道也。六経四書之文字者。聖人之言也。有志者。誦其言而求其道。所以有益也。無志者。誦其言而忘其道。所以無益也。凡学焉者。貴躬行心得之。苟無志求聖人之道。則不能躬行心得。然則雖博学強記。日日説経義。奚可有益于其身乎。
書き下し
或ひと疑ふ、世間書を読むの人多し。往往身心に益無き者は、何ぞやと。曰く、学を為すは志を立つるに在り。苟も志無きの人は、広覧博聞すと雖も、己に益無し。然れども志なる者は己に由りて有する所にして、別人に管せず。須らく自己奮起すべし。故に皮日休云ふ、聖人は人に道を与ふれども、人に志を与ふること能はずと。夫れ六経四書の載する所の者は、聖人の道なり。六経四書の文字は、聖人の言なり。志有る者は、其の言を誦して其の道を求む。益有る所以なり。志無き者は、其の言を誦して其の道を忘る。益無き所以なり。凡そ学ぶ者は、躬行して之を心得することを貴ぶ。苟も聖人の道を求むるに志無くんば、則ち躬行心得すること能はず。然らば則ち博学強記し、日日経義を説くと雖も、奚ぞ其の身に益有るべけんや。
現代語訳
ある人が疑って言いました。「世の中に本を読む人は多いのに、しばしば身にも心にも益がないのはなぜでしょう」。答えて言います。学問は志を立てることにあります。志のない人は、広く読み多く聞いても、自分に益はありません。しかし志は自分によって持つもので、他人の関わることではありません。自分で奮い立たなければなりません。だから皮日休は「聖人は人に道を与えることはできても、人に志を与えることはできない」と言いました。六経四書に載っているのは聖人の道であり、六経四書の文字は聖人の言葉です。志のある者は、その言葉を読んでその道を求めるので、益があります。志のない者は、その言葉を読んでその道を忘れるので、益がありません。学ぶ者は、自ら行って心に会得することを尊びます。聖人の道を求める志がなければ、自ら行って心に会得することはできません。そうであれば、広く学び強く覚え、毎日経書の意味を説いても、どうして自分の身に益がありましょう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之四善く学ぶ者は、志倦まず、心盈たず。一善の聞かず、一理の知らざること、歉然として飲食の飽かざるが如し。此れ何に繇りて然るや。誠に道は限り無くして、事は尽くること無きを以てなり。君子の平居無事の時に当たりては、大率衆人と異なること無し。艱難多事に遇ひて、而る後に其の才器の蘊蓄する所、優れて且つ長ずることを見る。所謂盤根錯節に遇はざれば、以て利器を別つに足ること無きなり。
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『慎思録』巻之六古来本邦の文学の士、往往詩文を作為することを喜ぶ。其の工夫甚だ苦し。然れども其の文字多しと雖も、中華の作に似ず、作文の法度無き者多し。惜しむべし、箇の無益の閑労擾を做し、枉げて心力を費やすことを。若し果たして道を求むるの志有らば、断じて此に到らじ。
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『慎思録』巻之五凡そ事は必ず咨訪して後に明らかなり。故に曰く、問ふことを好めば則ち裕かなり、と。必ず経歴して後に熟す。故に曰く、一事に躓く者は一智を長ず、と。苟も咨訪せずして自ら用ひ、経歴せずして妄りに行へば、亦殆ふいかなと曰ふ。朱子曰く、学は道を知るを以て本と為す。道を知れば則ち学純にして心正し、と。愚謂ふ、是れ学を為すの本旨なり。学者の志を立つる、宜しく此くの如くなるべし。蓋し学は将に以て道を知らんとす。苟も学を為して、道を知るを以て本と為さずんば、博学広聞すと雖も益無く、徒に心思を労するのみ。所謂多しと雖も亦奚を以て為さんといふものなり。夫れ道を知るは固より極めて難し。然れども道を知るを以て志と為さざれば、則ち学を為すこと駁雑にして純一ならず、心を立つること邪僻にして平正ならず。其の本を失ふに因るなり。然らば則ち宏才博聞の人に逾ゆる有りと雖も、儒者の学と為すべからず。百家衆技の流と相同じきを免れず。此れ即ち俗学の習ひにして、亦貴しと為すに足らず。若し乃ち朱子の言を以て之を反覆して言はば、道を知らんと欲すれば、則ち先づ須らく学純にして心正しきを要すべし。苟も学雑にして純一ならず、心正しからずして邪僻なれば、則ち道と相乖戻す。何を以てか道を知るを得んや。
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『慎思録』巻之一学は将に以て道を知らんとするなり。聖人詢詢として教へを垂る、至れり尽くせりと謂ふべし。学者をして道を知らしめんと欲するなり。後世学者益多くして、道を知ること能はざる者は、何ぞや。蓋し学者は須らく志を立つるを以て本と為すべし。其の志す所の者は何ぞや。道を知るを以て志と為すなり。学者博聞広覧すと雖も、然れども道を知るに志無くして、徒らに章句を以て勤めと為す者は、其の失三つ有り。曰く、詞章に溺る、訓詁に泥む、記誦に止まる。此の三者の習ひは、終身書を読むと雖も、然れども道を知ること能はず。労して功無しと謂ふべきなり。且つ道を求むるに志有りて、三失無しと雖も、然れども道を知ること能はざる者は、其の失亦四つ有り。苟も聖学に専一ならざれば、則ち志他岐に分かる。故に迷ひて道を知ること能はず。其の失一なり。之を博学せざれば、則ち孤陋寡聞にして、道を知ること能はず。其の失二なり。思ひを致すこと精詳ならざれば、則ち粗略にして道を知ること能はず。其の失三なり。曲士の教へに束ねらるるが如きは、則ち学を為すこと専一なりと雖も、然れども拘泥して道を知ること能はず。其の失四なり。須らく斯の数の失無くして、以て道を知るの工夫と為すべし。
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『正法眼蔵随聞記』巻五亦云く、仙人ありき、或人問て云く、如何がして仙を得ん、仙人の云く、仙を得んと思はゞ仙道を好むへしと、然れば学人も仏祖の道を得んと思はゞ、須く仏祖の道を好むへし、
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『囲炉夜話』第百四十則・只だ貧にして志有るを要す士既に學ぶを知るも、還た學びて恒無きを恐る。人は貧を患へず、只だ貧にして志有るを要す。