慎思録 / 巻之五
看詩。須擇風格。三百篇之後。陶謝及初唐盛唐數輩尤古雅。可謂得詩人之體。其餘工詩者固多。然得詩人之風格者鮮矣。竊謂。如朱子之論詩。恐可謂最得詩人之意也。
新字:看詩。須択風格。三百篇之後。陶謝及初唐盛唐数輩尤古雅。可謂得詩人之体。其余工詩者固多。然得詩人之風格者鮮矣。窃謂。如朱子之論詩。恐可謂最得詩人之意也。
書き下し
詩を看るには、須らく風格を択ぶべし。三百篇の後、陶謝及び初唐盛唐の数輩、尤も古雅にして、詩人の体を得たりと謂ふべし。其の余の詩に工なる者固より多し。然れども詩人の風格を得る者は鮮し。窃かに謂ふ、朱子の詩を論ずるが如き、恐らくは最も詩人の意を得たりと謂ふべし。
現代語訳
詩を読むには、風格を選ばなければなりません。『詩経』三百篇の後では、陶淵明・謝霊運と初唐・盛唐の数人がとりわけ古雅で、詩人の本来の姿を得ていると言えます。そのほかに詩の巧みな者はもちろん多くいます。しかし詩人の風格を得た者は少ないのです。ひそかに思うに、朱子が詩を論じたものなどは、おそらく最も詩人の心を得たものと言うべきでしょう。
解説
朱子は『詩集伝』を著して『詩経』の新しい解釈を示し、また詩を論じて、晋以前の古詩や陶淵明を高く評価し、後世の技巧に走る詩を戒めました。益軒はその詩論を最もよく詩人の心を得たものと讃えます。巧みさと風格は別物です。技術的にうまい作品はたくさんあっても、品格と深みを備えたものは少ない。読む詩を選ぶことは、自分の感性の基準を選ぶことでもあります。音楽でも文章でも、何に触れるかで目と耳が育ちます。良いものを選んで味わうことは、自分を育てることにつながるのです。
この章句が説くこと
詩風格古雅朱子読書
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