慎思録 / 巻之五
古昔中夏三代之盛世。固萬世所當法傚。而後世不可及而已矣。周亡以降。如漢文帝光武唐太宗等數君。其德其治雖不及于三代之聖主。亦所稀出之英主。如其恭儉忠厚。納諫好善。可爲百世之法也。如其餘季世庸君世出。昏亂相繼。然則今人之做談論。不可妄意是古非今。此非忠厚之道。且可思古昔之世有汚隆。主有賢否也。古之不可及者。因其時之隆。其主之賢而然耳。不可一槩爲不可及古而尙論也。至于後世。苟有狂妄之學士漫是古非今者。不避忌諱而誹議之。吾恐有時君不任其怒之禍。亦未可知也。後世學者須思居是邦不非其大夫之愼。吾輩幸生乎太平之世。浴治化之中。居安閑恣讀詩書。終身不事干戈。誠是人生之一大幸事也哉。學者常可樂斯樂。不可偏慕古議今也。
新字:古昔中夏三代之盛世。固万世所当法傚。而後世不可及而已矣。周亡以降。如漢文帝光武唐太宗等数君。其徳其治雖不及于三代之聖主。亦所稀出之英主。如其恭倹忠厚。納諫好善。可為百世之法也。如其余季世庸君世出。昏乱相継。然則今人之做談論。不可妄意是古非今。此非忠厚之道。且可思古昔之世有汚隆。主有賢否也。古之不可及者。因其時之隆。其主之賢而然耳。不可一槩為不可及古而尚論也。至于後世。苟有狂妄之学士漫是古非今者。不避忌諱而誹議之。吾恐有時君不任其怒之禍。亦未可知也。後世学者須思居是邦不非其大夫之慎。吾輩幸生乎太平之世。浴治化之中。居安閑恣読詩書。終身不事干戈。誠是人生之一大幸事也哉。学者常可楽斯楽。不可偏慕古議今也。
書き下し
古昔中夏三代の盛世は、固より万世の当に法傚すべき所にして、後世の及ぶべからざるのみ。周亡びて以降、漢の文帝・光武・唐の太宗等の数君の如き、其の徳其の治、三代の聖主に及ばずと雖も、亦稀に出づる所の英主なり。其の恭倹忠厚、諫を納れ善を好むが如き、百世の法と為すべきなり。其の余の季世の庸君の世出でて、昏乱相継ぐが如し。然らば則ち今人の談論を做すに、妄りに古を是とし今を非とすることを意ふべからず。此れ忠厚の道に非ず。且つ古昔の世に汚隆有り、主に賢否有ることを思ふべし。古の及ぶべからざる者は、其の時の隆んなる、其の主の賢なるに因りて然るのみ。一概に古に及ぶべからずと為して尚論すべからず。後世に至りて、苟も狂妄の学士の漫りに古を是とし今を非とする者有りて、忌諱を避けずして之を誹議すれば、吾恐らくは時君其の怒りに任へざるの禍有らんことも、亦未だ知るべからず。後世の学者は須らく是の邦に居りて其の大夫を非らずの慎みを思ふべし。吾輩幸ひに太平の世に生まれ、治化の中に浴し、安閑に居りて恣に詩書を読み、終身干戈を事とせず。誠に是れ人生の一大幸事なるかな。学者常に斯の楽しみを楽しむべし。偏に古を慕ひて今を議すべからざるなり。
現代語訳
昔の中国の夏・殷・周三代の盛んな世は、もとより万世が手本とすべきもので、後世は及ぶことができません。周が滅びて以後、漢の文帝・光武帝、唐の太宗などの数人の君主は、その徳や政治が三代の聖王には及ばないとはいえ、まれに出た英明な君主です。そのつつしみ深く倹約で、まごころがあって温厚で、諫めを受け入れ善を好んだことなどは、百代の手本とすべきです。そのほかは末世の凡庸な君主が次々に出て、乱れが続いたようなものです。そうであれば、今の人が議論をするとき、みだりに昔を正しいとし今を誤りとしようと考えてはなりません。これは忠厚の道ではありません。また昔の世にも盛衰があり、君主にも賢愚があったことを思うべきです。昔に及ばないのは、その時代が盛んで、その君主が賢かったからにすぎません。一概に昔には及ばないとして論じてはなりません。後世になって、もし常軌を外れた学者が、みだりに昔を正しいとし今を誤りとして、はばかるべきことも避けずに非難すれば、その時の君主が怒りを抑えきれずに禍が起こることもあるかもしれません。後世の学ぶ者は、「この国にいてはその大夫を非難しない」という慎みを思うべきです。私たちは幸いに太平の世に生まれ、治世の恩恵に浴し、安らかに暮らして思うままに詩書を読み、一生戦をせずにすんでいます。まことにこれは人生の一大幸事ではありませんか。学ぶ者はいつもこの楽しみを楽しむべきです。ひたすら昔を慕って今を論難してはなりません。
解説
この章句が説くこと
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