慎思録 / 巻之一
孔顏之樂。非樂道。又非樂天理之謂。且非別有一物而樂之。若謂以道爲樂。則道與樂做二了。人心本天命之所在。天機常生生不息。故滿腔常欣欣和氣。其生意不息。隨處欣合和暢。是謂之樂。是人生心裏自然所有之天性也。非獨孔顏有此樂。人皆有之。孔顏能勿喪耳。常人雖有之。爲私欲被間隔了。所以不能存此樂也。學者存養克己之功熟。而視聽言動無非禮。則日用動靜之際。天機流行發見。油然自生。如草木之有之生意也。便是樂。旣有此樂。則日新而不息。至於不知足之蹈之手舞之。且如人之吟風弄月詠歌舞蹈以養其血脉。與夫草木之發生禽鳥之和鳴鳶飛魚躍。皆是同一天機。自然之生理。而無非樂也。
新字:孔顔之楽。非楽道。又非楽天理之謂。且非別有一物而楽之。若謂以道為楽。則道与楽做二了。人心本天命之所在。天機常生生不息。故満腔常欣欣和気。其生意不息。随処欣合和暢。是謂之楽。是人生心裏自然所有之天性也。非独孔顔有此楽。人皆有之。孔顔能勿喪耳。常人雖有之。為私欲被間隔了。所以不能存此楽也。学者存養克己之功熟。而視聴言動無非礼。則日用動静之際。天機流行発見。油然自生。如草木之有之生意也。便是楽。既有此楽。則日新而不息。至於不知足之蹈之手舞之。且如人之吟風弄月詠歌舞蹈以養其血脉。与夫草木之発生禽鳥之和鳴鳶飛魚躍。皆是同一天機。自然之生理。而無非楽也。
書き下し
孔顔の楽しみは、道を楽しむに非ず、又天理を楽しむの謂に非ず。且つ別に一物有りて之を楽しむに非ず。若し道を以て楽しみと為すと謂はば、則ち道と楽しみと二つと做し了る。人心は本天命の在る所なり。天機常に生生して息まず。故に満腔常に欣欣として和気あり。其の生意息まず、随処に欣合和暢す。是れを之れ楽しみと謂ふ。是れ人生心裏自然に有する所の天性なり。独り孔顔のみ此の楽しみ有るに非ず、人皆之有り。孔顔は能く喪ふこと勿きのみ。常人は之有りと雖も、私欲の為に間隔せられ了る。此の楽しみを存すること能はざる所以なり。学者存養克己の功熟して、視聴言動礼に非ざること無ければ、則ち日用動静の際、天機流行発見して、油然として自ら生ず。草木の之れ生意有るが如きなり。便ち是れ楽しみなり。既に此の楽しみ有れば、則ち日に新たにして息まず、足の之を踏み手の之を舞ふを知らざるに至る。且つ人の風を吟じ月を弄び、詠歌舞踏して以て其の血脉を養ふが如きと、夫の草木の発生、禽鳥の和鳴、鳶飛び魚躍るとは、皆是れ同一の天機、自然の生理にして、楽しみに非ざる無きなり。
現代語訳
孔子と顔回の楽しみは、道を楽しむことではなく、また天理を楽しむことでもありません。別に何か一つの物があってそれを楽しむのでもありません。もし道を楽しみとすると言えば、道と楽しみを二つに分けてしまいます。人の心はもともと天命のあるところです。天の働きは常に生み生みしてやみません。だから胸いっぱいに常に喜ばしく和やかな気があり、その生きる意はやまず、どこにいても喜び和み伸びやかです。これを楽しみと言います。これは人が生まれながら心の中に自然に持っている天性です。孔子と顔回だけがこの楽しみを持っているのではなく、人はみな持っています。孔子と顔回はそれを失わなかっただけです。普通の人は持っていても、私欲に隔てられてしまいます。それがこの楽しみを保てない理由です。学ぶ者が心を保ち養い己に克つ努力が熟し、見ること聞くこと言うこと動くことがすべて礼にかなえば、日々の動静の間に天の働きが流れ現れ、湧き出るように自然に生じます。草木に生きる意があるようなものです。それがすなわち楽しみです。この楽しみがあれば、日々新たになってやまず、思わず足が踏み鳴らし手が舞うほどになります。また人が風を吟じ月を愛で、歌い踊ってその血脈を養うことも、草木が芽生え、鳥が和やかに鳴き、鳶が飛び魚が躍ることも、みな同じ天の働き、自然の生きる理であって、楽しみでないものはありません。
解説
この章句が説くこと
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