慎思録 / 巻之五
古人謂。人不讀書萬卷。不行地千里。看不得杜詩。葢言。人必見聞廣博。而可見得杜詩之佳處。杜詩尙然。况道之浩浩。豈少所聞見。而能可知得之乎。
新字:古人謂。人不読書万巻。不行地千里。看不得杜詩。葢言。人必見聞広博。而可見得杜詩之佳処。杜詩尚然。況道之浩浩。豈少所聞見。而能可知得之乎。
書き下し
古人謂ふ、人万巻の書を読まず、千里の地を行かざれば、杜詩を看得ず、と。蓋し言ふこころは、人必ず見聞広博にして、杜詩の佳処を見得べし。杜詩すら尚ほ然り。况や道の浩浩たる、豈に聞見する所少なくして、能く之を知り得べけんや。
現代語訳
昔の人は「万巻の書を読まず、千里の地を行かなければ、杜甫の詩はわからない」と言いました。つまり、人は必ず見聞が広くなってこそ、杜甫の詩のよいところがわかるということです。杜甫の詩でさえそうなのです。まして道の広大さは、見聞が少なくてどうして知ることができましょうか。
解説
「万巻の書を読み、万里の路を行く」は明の董其昌らの言葉として知られ、書物の学びと実地の経験の両方を求める言葉です。杜甫の詩は安史の乱の中を放浪した体験に裏打ちされているので、読む側にも広い見聞が要るというわけです。益軒自身、京都や江戸をたびたび往来し、各地を歩いて『筑前国続風土記』や多くの紀行文を著しました。書物だけでも、経験だけでも足りない。本を読み、現場を歩き、人に会う。その両方があって初めて深い理解に至るという、益軒の学問観がよく表れています。
この章句が説くこと
読書見聞経験杜甫道
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