酔古堂剣掃 / 集醒・山嶽に登る者にして崎嶇を知る
涉江湖者,然後知波濤之洶湧;登山嶽者,然後知蹊徑之崎嶇。
新字:渉江湖者,然後知波濤之洶湧;登山嶽者,然後知蹊径之崎嶇。
書き下し
江湖を涉る者にして、然る後に波濤の洶湧を知る。 山嶽に登る者にして、然る後に蹊徑の崎嶇を知る。
現代語訳
川や湖を渡った者だけが、そのあとで波の荒々しさを知ります。山に登った者だけが、そのあとで小道の険しさを知ります。
解説
実際に体験してはじめて分かることがある、という道理を二つの情景で述べた対句です。洶湧は波がわき立つさま、崎嶇は道が険しくでこぼこしていることを言います。遠くから眺めている人には、川はただ美しく、山はただ雄大に見えます。しかし実際に舟を出し、足で登った人だけが、その困難を身をもって知ります。江湖は世の中、山岳は高い志のたとえとしても読めるでしょう。世間の苦労も、志の険しさも、踏み出した者にしか分かりません。人の仕事を外から批評する前に、自分でやってみることの大切さを思い出させてくれます。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
経験実践世間立志苦労
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