慎思録 / 巻之五
當于安樂之時。不知其安樂。故不能樂其安樂者。常人之情也。所謂蓼蟲不知辛之類也。必涉於憂患之時。而後知前時之安樂而思之。君子不然。當其安樂之時也。必知其安樂而樂之。所謂素其位而行。不願乎其外也。
新字:当于安楽之時。不知其安楽。故不能楽其安楽者。常人之情也。所謂蓼虫不知辛之類也。必渉於憂患之時。而後知前時之安楽而思之。君子不然。当其安楽之時也。必知其安楽而楽之。所謂素其位而行。不願乎其外也。
書き下し
安楽の時に当たりて、其の安楽を知らず。故に其の安楽を楽しむこと能はざる者は、常人の情なり。所謂蓼虫の辛きを知らざるの類なり。必ず憂患の時を渉りて、而る後に前時の安楽を知りて之を思ふ。君子は然らず。其の安楽の時に当たるや、必ず其の安楽を知りて之を楽しむ。所謂其の位に素して行ひ、其の外を願はざるなり。
現代語訳
安楽な時にいながら、その安楽に気づかない。だからその安楽を楽しむことができないのが、普通の人の情です。いわゆる「蓼を食う虫は辛さを知らない」というたぐいです。必ず心配や苦しみの時を経てから、以前の安楽に気づいてそれを懐かしみます。君子はそうではありません。安楽な時にいれば、必ずその安楽を知ってそれを楽しみます。いわゆる「その立場のままに行い、その外を願わない」ということです。
解説
蓼虫は、辛い蓼の葉を食べて育つ虫がその辛さを知らないように、慣れきった環境の良し悪しに気づかないことのたとえです。日本の「蓼食う虫も好き好き」とは少し違う使い方です。益軒は、失って初めて平穏のありがたさに気づく凡人と、今の安楽をそのまま味わえる君子とを対比します。結びは前にも引かれた『中庸』第十四章です。健康や家族や平穏な日常は、失ってから気づくことが多いものです。何事もない今日を意識して味わうことは、益軒の『楽訓』に通じる幸福の技術なのです。
この章句が説くこと
楽安分知足日常中庸
関連する章句
-
『慎思録』巻之三君子の娯楽や、常に閑淡を好む。中庸に曰く、君子の道は、淡にして厭はず、と。蓋し閑淡を楽しめば、則ち久しくして厭はず、且つ余味有り。閙濃を楽しめば、則ち久しからずして厭ひ、亦余味無し。况んや楽しみを好みて荒めば、則ち楽しみ未だ尽きずして、憂ひ既に生ずるをや。
-
『慎思録』巻之一天地は大寒大暑、大風大雨、迅雷地震、大変の時に方ると雖も、其の太和を失はず。是を以て万物を発育して、生理息まず。人は艱難多事の時、窮困危変の時に方り、横逆払戻の事に遇ふと雖も、従容自得、随処にして之を楽しむの工夫を忘るべからず。中庸の所謂君子は其の位に素して行ひ、入るとして自得せざること無しといふ者なり。苟も此くの如くならざれば、則ち天地の和気と相似ず。
-
『呻吟語』内篇・問學・樂を學べば便ち是れ助長の心王心齋は每に樂を以て學と為す。此等の學問は是れ苦を會せざるの甜瓜なり。入門就ち樂を學ぶ。其の樂しみや、逍遙自在なるのみ。深造真積、憂勤惕勵の中より得來たるに自らず。孔子の樂しみて以て憂ひを忘るるは、發憤して食を忘るるに由る。顏子の其の樂しみを改めざるは、博約克復に由る。其の樂しみや、優游自得して、歡欣に意無くして自ら擾れず、曠達に心無くして自ら悶えず。若し樂しむ可き有りと覺えば、還た是れ乍得の心なり。樂を學ぶに意を著くれば、便ち是れ助長の心なり。
-
『呻吟語』内篇・談道・樂の傳はらざるを恨む千載にして下、最も恨む可き者は樂の傳はる無きなり。士大夫視て迂闊無用の物と為して、其の身心性命に切なる有るを知らず。
-
論語・八佾篇三家者、雍を以て徹す。子曰く、『相維(かな)い辟公、天子穆穆(ぼくぼく)。何をか三家の堂に取りてか。』
-
『呻吟語』外篇・品藻・樂は內外を知るを要す樂は內外を知るを要す。聖賢の樂は心に在り、故に順逆窮通處に隨ひて皆な泰なり。眾人の樂は物に在り、故に山溪花鳥境に遇ひて才かに生ず。