弁名 / 性情才
故立樂以敎之。性者人之所受天。所謂中是也。故以其嬰孩之初。喜怒哀樂未用事之時言之。所謂人生而靜者是也。是非謂必求復嬰孩之初也。又非謂以靜虛爲至也。爲樂能制其躁動。防其過甚。故以其未甚時言之耳。如中庸未發之中。亦非以未發之時爲大本爲施功之地。但謂人之性。稟天地之中。故先王之道。率人性以立之耳。後儒不知古言。不知古文辭。又不知先王之敎之術。妄以爲本然之德。務以義理說之。遂成宋儒之陋。王氏伊藤氏又據宋儒之解而讀古文辭。議其非孔門之言者何邪。大氏性與習不可得而別者也。故古者語性。多以嬰孩之初言之耳。豈以嬰孩爲貴哉。又如孟子曰大人者不失其赤子之心者也。亦宋儒復初之說所本也。殊不知大人乃大舜之誤耳。
新字:故立楽以教之。性者人之所受天。所謂中是也。故以其嬰孩之初。喜怒哀楽未用事之時言之。所謂人生而静者是也。是非謂必求復嬰孩之初也。又非謂以静虚為至也。為楽能制其躁動。防其過甚。故以其未甚時言之耳。如中庸未発之中。亦非以未発之時為大本為施功之地。但謂人之性。稟天地之中。故先王之道。率人性以立之耳。後儒不知古言。不知古文辞。又不知先王之教之術。妄以為本然之徳。務以義理説之。遂成宋儒之陋。王氏伊藤氏又拠宋儒之解而読古文辞。議其非孔門之言者何邪。大氏性与習不可得而別者也。故古者語性。多以嬰孩之初言之耳。豈以嬰孩為貴哉。又如孟子曰大人者不失其赤子之心者也。亦宋儒復初之説所本也。殊不知大人乃大舜之誤耳。
書き下し
故に楽を立てて以て之を教ふ。性は人の天に受くる所、所謂中是れなり。故に其の嬰孩の初め、喜怒哀楽未だ事を用ひざるの時を以て之を言ふ。所謂人生まれて静かなる者是れなり。是れ必ず嬰孩の初めに復らんことを求むと謂ふに非ず。又た静虚を以て至りと為すと謂ふに非ず。楽を為りて能く其の躁動を制し、其の過甚を防ぐ。故に其の未だ甚だしからざるの時を以て之を言ふのみ。中庸の未発の中の如きも、亦た未発の時を以て大本と為し、功を施すの地と為すに非ず。但だ人の性、天地の中を稟く、故に先王の道、人の性に率ひて以て之を立つと謂ふのみ。後儒、古言を知らず、古文辞を知らず、又た先王の教の術を知らず、妄りに以て本然の徳と為し、務めて義理を以て之を説き、遂に宋儒の陋を成す。王氏・伊藤氏又た宋儒の解に拠りて古文辞を読み、其の孔門の言に非ずと議する者は何ぞや。大氐性と習とは得て別つべからざる者なり。故に古者性を語るに、多く嬰孩の初めを以て之を言ふのみ。豈に嬰孩を以て貴しと為さんや。又た孟子の「大人は其の赤子の心を失はざる者なり」と曰ふが如きも、亦た宋儒復初の説の本づく所なり。殊に知らず、大人は乃ち大舜の誤りなるのみ。
現代語訳
だから楽を立てて人を教えたのである。性とは人が天から受けたもので、いわゆる「中」がそれである。それゆえ、赤子の初め、喜怒哀楽がまだはたらいていない時に即して言った。「人が生まれて静か」とはこのことである。これは必ず赤子の初めに戻ることを求めよという意味ではない。また、静かで虚であることを最上とするという意味でもない。楽を作って騒がしい動きを抑え、行き過ぎを防ぐから、まだ激しくない時に即して言っただけである。『中庸』の「未発の中」も、未発の時を大本とし、修養を施す場とするのではない。ただ人の性は天地の中正を受けているので、先王の道は人の性に従って立てられた、と言っているだけである。後の儒者は古い言葉を知らず、古文辞を知らず、先王の教えの方法も知らずに、みだりにこれを本然の徳とし、つとめて義理で説明し、ついに宋儒の浅はかさを作り上げた。王氏や伊藤氏(仁斎)もまた宋儒の解釈によって古文辞を読み、これを孔子の門の言葉ではないと論じたのはなぜか。おおよそ性と習とは分けられないものである。だから古人は性を語るとき、多く赤子の初めに即して言ったまでで、赤子を尊んだわけではない。また孟子の「大人はその赤子の心を失わない者である」も宋儒の「初めに復る」説の根拠となったが、実は「大人」は「大舜」の誤りにすぎないことを知らないのである。
解説
この章句が説くこと
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『慎思録』巻之三君子の娯楽や、常に閑淡を好む。中庸に曰く、君子の道は、淡にして厭はず、と。蓋し閑淡を楽しめば、則ち久しくして厭はず、且つ余味有り。閙濃を楽しめば、則ち久しからずして厭ひ、亦余味無し。况んや楽しみを好みて荒めば、則ち楽しみ未だ尽きずして、憂ひ既に生ずるをや。
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『慎思録』巻之五安楽の時に当たりて、其の安楽を知らず。故に其の安楽を楽しむこと能はざる者は、常人の情なり。所謂蓼虫の辛きを知らざるの類なり。必ず憂患の時を渉りて、而る後に前時の安楽を知りて之を思ふ。君子は然らず。其の安楽の時に当たるや、必ず其の安楽を知りて之を楽しむ。所謂其の位に素して行ひ、其の外を願はざるなり。
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『慎思録』巻之一天地は大寒大暑、大風大雨、迅雷地震、大変の時に方ると雖も、其の太和を失はず。是を以て万物を発育して、生理息まず。人は艱難多事の時、窮困危変の時に方り、横逆払戻の事に遇ふと雖も、従容自得、随処にして之を楽しむの工夫を忘るべからず。中庸の所謂君子は其の位に素して行ひ、入るとして自得せざること無しといふ者なり。苟も此くの如くならざれば、則ち天地の和気と相似ず。
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『学則』對西肥水秀才問問ふを承く。律暦の古法は甚だ簡なりと。甚だ鄙衷に愜ふ。不佞楽を好む。是に由りて声律の説を推覈し、頗る其の蘊を尽くすを得たり。夏書に曰く、詩は志を言ひ、歌は言を永くし、声は永きに依り、律は声を和すと。是れ律は本人の音を以て準と為す。後世乃ち尺度累黍を以て之を求む。失ふ所以なり。今本邦に伝ふる所の黄鍾は、乃ち古の黄鍾なること、誠に足下の言の如し。楽家に譜有り。試みに之を唱へば、則ち人の口中の音の最も濁れる者を黄鍾と為すを知らん。何ぞ必ずしも紛紛たらん。三分損益の如きも亦た大概之を言ふ。何となれば則ち必ず耳を以て聴きて乃ち定まればなり。後世の尺度を以て律管を截るが如きは、必ず毫忽の数有り。目睹る能はず、刀截る能はず。将た何の益かあらん。故に古来大概之を言ふ者、反りて妙理に臻るなり。
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『慎思録』巻之一記に曰く、君子は其の道を得るを楽しむと。蓋し其の道を得るとは、惟心に私欲無くして、事理に当たるの謂なり。其の道を得ざれば、則ち此に反す。其の道を得れば、則ち随処にして楽しむ。所謂君子は入るとして自得せざること無しなり。然らば則ち逆境に処ると雖も、其の和楽の心を失はず。況んや順境に於てをや。立てば則ち立つを楽しみ、行けば則ち行くを楽しみ、臥せば則ち臥すを楽しみ、飲食すれば則ち飲食を楽しみ、客に対すれば則ち客を楽しみ、山水を観れば則ち山水を楽しむ。此くの如くなれば則ち往くとして楽しまざる所無し。驕楽を楽しみ佚遊を楽しむに非ず。蓋し自ら其の楽しみ有るのみ。
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『慎思録』巻之一楽しみは、是れ人心の天機なり。常人と雖も亦皆之有り。豈に唯人心のみ此の楽しみ有るのみならんや。草木の発生、禽虫の和鳴の如きも、亦是れ天機の発動にして、以て其の楽しみと為すべし。唯人は気稟の為に蔽錮せられ、物欲に間隔せられて、此の楽しみを失ふ者、世を挙げて皆然り。人情喜楽を欲せざること無し。然れども衆人は人心の本自ら此の楽しみ有るを識ること能はず。惟中に得る所無ければ、則ち外物を藉りて以て楽しみを求めざること能はず。是を以て声色臭味の欲、至らざる所無し。然れども道を以て欲を制すること能はざれば、則ち惑ひて楽しまず。故に其の初め耽楽すと雖も、然れども其の終り憂患無きこと能はず。衆人の惑ひて楽しまざる所以なり。
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