慎思録 / 巻之五
書者心畫也。心之所出見也。可不敬乎。明道作字時甚敬。曰。非欲字好。即此是學。司馬温公平生未嘗艸書。雖造次顚沛間。一點一畫。必如法度。觀其書者。即知公之爲人。是皆可爲法。予之先考善書。平生於筆札極謹嚴。雖當倉率之際。隻字不艸畧。始終如一。其不苟也如此。吾人之所不能及也。
新字:書者心画也。心之所出見也。可不敬乎。明道作字時甚敬。曰。非欲字好。即此是学。司馬温公平生未嘗艸書。雖造次顛沛間。一点一画。必如法度。観其書者。即知公之為人。是皆可為法。予之先考善書。平生於筆札極謹厳。雖当倉率之際。隻字不艸略。始終如一。其不苟也如此。吾人之所不能及也。
書き下し
書は心画なり。心の出でて見はるる所なり。敬まざるべけんや。明道字を作る時甚だ敬む。曰く、字の好からんことを欲するに非ず。即ち此れ是れ学なり、と。司馬温公は平生未だ嘗て草書せず。造次顛沛の間と雖も、一点一画、必ず法度の如し。其の書を観る者、即ち公の為人を知る。是れ皆法と為すべし。予の先考は書を善くす。平生筆札に於て極めて謹厳なり。倉卒の際に当たると雖も、隻字も草略せず。始終一の如し。其の苟もせざること此くの如し。吾人の及ぶこと能はざる所なり。
現代語訳
書は心の絵です。心が外に出て現れたものです。敬まずにいられましょうか。程明道は字を書くとき、とてもつつしみました。そして「字を上手に書こうとしているのではない。これがそのまま学問なのだ」と言いました。司馬温公は平生、草書を書いたことがありませんでした。とっさの慌ただしい時でも、一点一画が必ず決まりどおりでした。その書を見る者は、すぐに温公の人柄がわかりました。これらはみな手本とすべきです。私の亡き父は書に優れていました。平生、手紙や書き物にきわめて謹厳で、慌ただしい時でも一字も崩して略しませんでした。初めから終わりまで一貫していました。そのいいかげんにしない姿勢はこのようでした。私たちの及ばないところです。
解説
「書は心画なり」は前漢の揚雄『法言』問神篇の言葉です。程顥の言葉は『二程遺書』に見え、字を書くことそのものを敬の修養とする朱子学の姿勢を示しています。造次顛沛は『論語』里仁篇の語で、とっさの時や危急の時をいいます。益軒は最後に、亡き父、福岡藩士の貝原寛斎の書の謹厳さを偲びます。字の上手下手ではなく、一字一字を丁寧に書く心がその人を表します。メールやメモを急いで雑に書いていないか。小さな仕事に表れる心の姿勢を省みさせる一条です。
この章句が説くこと
書敬心修養丁寧
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