酔古堂剣掃 / 集醒・常に惺惺たりと謂ふべし
世人白晝寐語,苟能寐中作白晝語,可謂常惺惺矣。
新字:世人白昼寐語,苟能寐中作白昼語,可謂常惺惺矣。
書き下し
世人は白晝に寐語す、苟も能く寐中に白晝の語を作さば、常に惺惺たりと謂ふべし。
現代語訳
世の人は真昼に寝言を言っています。もし眠っている間にも昼間のようなしっかりした言葉を語れるなら、いつも目覚めていると言ってよいでしょう。
解説
目覚めと眠りを逆さまにして、人の迷いを突いた一則です。寐語は寝言のことで、世の人は昼間起きていながら、夢の中のようにぼんやりと筋の通らないことを言っているという皮肉です。反対に、眠っている時でさえ昼間のようにしっかりした言葉を語れる人こそが、本当に目覚めた人だと言います。惺惺は目覚めてはっきりしているさまで、宋の儒者謝良佐が敬の工夫を「常惺惺の法」と言い表したことで知られます。目を開けていても心が眠っていることは、今日の私たちにもよくあります。惰性で過ごしていないか、自分の言葉に芯があるかを時々確かめたいものです。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
覚醒修身敬惰性心
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『洗心洞箚記』卷上・第百五十三條敬の斯須も離るべからざるや、愚かなる読書者と雖も則ち皆之を知る。然れども人徒に敬を倡へて、其の道を尽くさざれば、則ち却つて不敬なり。夫れ敬の体用は、徹して大なり。易に曰く、「敬以て内を直くす」と。大学に曰く、「敬して止まる」と。曲礼に曰く、「敬せざること毋れ、儼として思ふが如くし、辞を安定にせば、民を安んぜんかな」と。是の故に敬と云へば、則ち心直し、心至善に止まる。然る後其の体立つ。容貌常に惰廃暴慢の状有るべからず、言辞常に過黙多言と戯謔の失有るべからず、而して家人常に猥雑乱濁の行無し。然る後其の用行はる。是に於て始めて敬を尊ぶと謂ふべきのみ。否ざれば則ち口に敬して、内外倶に其の実無し。之を敬と謂ひて可ならんや。故に吾輩真に工夫を此の一字に用ふれば、則ち身修まりて家斉ふに庶幾からん。
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『大和俗訓』巻之三・心術上一敬はつつしむと訓ず。つつしむとは、心に戒めおそるるを云ふ。和語の意はつつむなり。しはやすめ字なり。内につつんで、みだりに外に出さざるなり。敬めば本心をたもちて失はず、行ひなす事理にかなひてあやまりなし。ここを以て、敬は一心のまもり、万善の根本なり。故に敬めば身修り、敬まざれば乱る。万のこと、敬まざることなかれ。万善皆つつしみによつて行はれ、万悪皆不敬よりおこる。故に五常の徳是によつて立ち、五倫の道是によつて行はる。ここを以て、聖学は敬を以て要とす。故に聖学の始終、皆敬を以て宗とす。古来聖賢の心法、皆敬の一字を要とす。学者の尤つとむべき所なり。又よくつつしめば福あり。つつしまざれば禍あり。白楽天も、禍と福とは慎むと慎まざるとに在りといへり。身のわざはひは、皆つつしまざるによれり。故につつしみは禍にかつといへり。
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