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慎思録 / 巻之四

靜坐之說。自二程子始。孔孟未嘗說。葢初學之人。思慮煩擾。心志難定。故姑以此收拾此心。是應病之藥。葢靜是動之本。動是靜之發。故先靜而後動。則心有定主。其應事也。有力而不亂。伊川易傳曰。不翕聚。則不能發散。亦此意。此非偏靜。而似坐禪入定之法。若將靜坐別爲一件之工夫。則與坐禪何異。不如居敬之無弊也。

新字:静坐之説。自二程子始。孔孟未嘗説。葢初学之人。思慮煩擾。心志難定。故姑以此収拾此心。是応病之薬。葢静是動之本。動是静之発。故先静而後動。則心有定主。其応事也。有力而不乱。伊川易伝曰。不翕聚。則不能発散。亦此意。此非偏静。而似坐禅入定之法。若将静坐別為一件之工夫。則与坐禅何異。不如居敬之無弊也。

書き下し

静坐の説は、二程子より始まる。孔孟は未だ嘗て説かず。蓋し初学の人は、思慮煩擾し、心志定まり難し。故に姑く此を以て此の心を収拾す。是れ病に応ずるの薬なり。蓋し静は是れ動の本、動は是れ静の発なり。故に静を先にして動を後にすれば、則ち心に定主有り。其の事に応ずるや、力有りて乱れず。伊川易伝に曰く、翕聚せざれば、則ち発散すること能はず、と。亦た此の意なり。此れ静に偏るに非ずして、坐禅入定の法に似たり。若し静坐を将て別に一件の工夫と為さば、則ち坐禅と何ぞ異ならん。居敬の弊無きに如かざるなり。

現代語訳

静坐の説は、程明道・程伊川の兄弟から始まりました。孔子や孟子は説いたことがありません。初めて学ぶ人は、考えが乱れて心が定まりにくいので、ひとまず静坐によって心をまとめるのです。これは病に応じた薬です。静は動の根本で、動は静が外に現れたものです。ですから静を先にして動を後にすれば、心に定まった主があり、事に応じるときに力があって乱れません。伊川の『易伝』に「集まり収まらなければ、発散することはできない」とあるのも、この意味です。これは静に偏るのではありませんが、坐禅入定の方法に似ています。もし静坐を特別な一つの修行としてしまえば、坐禅と何が違いましょう。居敬に弊害がないのには及びません。

解説

宋学で重んじられた静坐について、益軒の慎重な見方を示した条です。静坐は程明道・程伊川に始まり孔孟は説いていないと指摘し、心が乱れやすい初学者には「病に応じた薬」として有効だと認めます。しかし静坐を独立した修行にすれば仏教の坐禅と変わらないとして、日常の中で心を慎み集中する「居敬」のほうが弊害がないと結びます。一時的に心を落ち着ける方法は役に立つが、それ自体が目的になってはいけないという指摘は、瞑想やマインドフルネスとの付き合い方を考えるときにも参考になります。

この章句が説くこと

静坐居敬坐禅

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