洗心洞箚記 / 卷上・第百五十三條
敬之不可斯須離也、雖愚讀書者則皆知之、然人徒倡敬、而不盡其道、則却不敬也、夫敬之體用、徹而大、易曰、敬以直內、大學曰、敬止、曲禮曰、毋不敬、儼如思、安定辭、安民哉、是故敬云、則心直矣、心止至善矣、然後其體立矣、容貌常不可有惰廢暴慢之狀、言辭常不可有過默多言、與戲謔之失、而家人常無猥雜亂濁之行、然後其用行矣、於是始可謂尊敬也已矣、否則口敬、而內外俱無其實、謂之敬可耶、故吾輩眞用工夫于此一字、則庶幾身修而家齊矣、
新字:敬之不可斯須離也、雖愚読書者則皆知之、然人徒倡敬、而不尽其道、則却不敬也、夫敬之体用、徹而大、易曰、敬以直内、大学曰、敬止、曲礼曰、毋不敬、儼如思、安定辞、安民哉、是故敬云、則心直矣、心止至善矣、然後其体立矣、容貌常不可有惰廃暴慢之状、言辞常不可有過黙多言、与戯謔之失、而家人常無猥雑乱濁之行、然後其用行矣、於是始可謂尊敬也已矣、否則口敬、而内外倶無其実、謂之敬可耶、故吾輩真用工夫于此一字、則庶幾身修而家斉矣、
書き下し
敬の斯須も離るべからざるや、愚かなる読書者と雖も則ち皆之を知る。然れども人徒に敬を倡へて、其の道を尽くさざれば、則ち却つて不敬なり。夫れ敬の体用は、徹して大なり。易に曰く、「敬以て内を直くす」と。大学に曰く、「敬して止まる」と。曲礼に曰く、「敬せざること毋れ、儼として思ふが如くし、辞を安定にせば、民を安んぜんかな」と。是の故に敬と云へば、則ち心直し、心至善に止まる。然る後其の体立つ。容貌常に惰廃暴慢の状有るべからず、言辞常に過黙多言と戯謔の失有るべからず、而して家人常に猥雑乱濁の行無し。然る後其の用行はる。是に於て始めて敬を尊ぶと謂ふべきのみ。否ざれば則ち口に敬して、内外倶に其の実無し。之を敬と謂ひて可ならんや。故に吾輩真に工夫を此の一字に用ふれば、則ち身修まりて家斉ふに庶幾からん。
現代語訳
敬が片時も離れてはならないものであることは、愚かな読書人でさえ皆知っている。しかし人がいたずらに敬を唱えるだけで、その道を尽くさなければ、かえって不敬である。そもそも敬の本体と働きは、徹底していて大きい。『易』には「敬によって内を真っすぐにする」とあり、『大学』には「敬んで止まる」とあり、『礼記』曲礼には「敬まないことがあってはならない。おごそかに思いをこらすようにし、言葉を落ち着かせれば、民を安らかにできる」とある。だから敬といえば、心は真っすぐになり、心は至善に止まる。そうして初めてその本体が立つ。容貌にはいつも怠り崩れ、乱暴でおごった様子があってはならず、言葉にはいつも黙りすぎ、しゃべりすぎ、戯れの過ちがあってはならず、家の者にはいつも猥雑で乱れ濁った行いがない。そうして初めてその働きが行われる。ここに至ってようやく敬を尊ぶと言えるのである。そうでなければ口で敬と言うだけで、内にも外にもその実がない。それを敬と言えようか。だから我々が本当にこの一字に工夫を用いれば、身が修まり家が斉うことに近づくだろう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『大和俗訓』巻之三・心術上一敬はつつしむと訓ず。つつしむとは、心に戒めおそるるを云ふ。和語の意はつつむなり。しはやすめ字なり。内につつんで、みだりに外に出さざるなり。敬めば本心をたもちて失はず、行ひなす事理にかなひてあやまりなし。ここを以て、敬は一心のまもり、万善の根本なり。故に敬めば身修り、敬まざれば乱る。万のこと、敬まざることなかれ。万善皆つつしみによつて行はれ、万悪皆不敬よりおこる。故に五常の徳是によつて立ち、五倫の道是によつて行はる。ここを以て、聖学は敬を以て要とす。故に聖学の始終、皆敬を以て宗とす。古来聖賢の心法、皆敬の一字を要とす。学者の尤つとむべき所なり。又よくつつしめば福あり。つつしまざれば禍あり。白楽天も、禍と福とは慎むと慎まざるとに在りといへり。身のわざはひは、皆つつしまざるによれり。故につつしみは禍にかつといへり。
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『慎思録』巻之二朱子曰く、事無き時は、敬は裏面に在り。事有る時は、敬は事上に在り、と。篤信窃かに謂ふ、居敬の工夫は、須らく内外を貫き動静を兼ぬることを要すべし。蓋し方に事無き時は、此の心固より当に内に存すべし。事有る時も、亦た当に心存して事苟もせざるべし。事有ると事無きと、内に存する者は異ならず。朱子の敬は事上に在りと謂ふ者は、心体内に存して、妙用外に応ずるなり。全く事上に在るに非ず。
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『慎思録』巻之五書は心画なり。心の出でて見はるる所なり。敬まざるべけんや。明道字を作る時甚だ敬む。曰く、字の好からんことを欲するに非ず。即ち此れ是れ学なり、と。司馬温公は平生未だ嘗て草書せず。造次顛沛の間と雖も、一点一画、必ず法度の如し。其の書を観る者、即ち公の為人を知る。是れ皆法と為すべし。予の先考は書を善くす。平生筆札に於て極めて謹厳なり。倉卒の際に当たると雖も、隻字も草略せず。始終一の如し。其の苟もせざること此くの如し。吾人の及ぶこと能はざる所なり。
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論語・為政篇子游孝を問う。子曰く、「今の孝者は、是れ能く養うと謂う。犬馬に至るまで、皆能く養うこと有り。敬せずんば、何を以て別たんや。」
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『慎思録』巻之四静坐の説は、二程子より始まる。孔孟は未だ嘗て説かず。蓋し初学の人は、思慮煩擾し、心志定まり難し。故に姑く此を以て此の心を収拾す。是れ病に応ずるの薬なり。蓋し静は是れ動の本、動は是れ静の発なり。故に静を先にして動を後にすれば、則ち心に定主有り。其の事に応ずるや、力有りて乱れず。伊川易伝に曰く、翕聚せざれば、則ち発散すること能はず、と。亦た此の意なり。此れ静に偏るに非ずして、坐禅入定の法に似たり。若し静坐を将て別に一件の工夫と為さば、則ち坐禅と何ぞ異ならん。居敬の弊無きに如かざるなり。
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『酔古堂剣掃』集醒・常に惺惺たりと謂ふべし世人は白晝に寐語す、苟も能く寐中に白晝の語を作さば、常に惺惺たりと謂ふべし。
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