慎思録 / 巻之二
朱子曰。無事時。敬在裏面。有事時。敬在事上。篤信竊謂。居敬之工夫。須要貫內外兼動靜。葢方無事時。此心固當存于內。有事時。亦當心存而事不苟。有事與無事。存內者不異。朱子謂敬在事上者。心體存內。妙用應外也。非全在事上。
新字:朱子曰。無事時。敬在裏面。有事時。敬在事上。篤信窃謂。居敬之工夫。須要貫内外兼動静。葢方無事時。此心固当存于内。有事時。亦当心存而事不苟。有事与無事。存内者不異。朱子謂敬在事上者。心体存内。妙用応外也。非全在事上。
書き下し
朱子曰く、事無き時は、敬は裏面に在り。事有る時は、敬は事上に在り、と。篤信窃かに謂ふ、居敬の工夫は、須らく内外を貫き動静を兼ぬることを要すべし。蓋し方に事無き時は、此の心固より当に内に存すべし。事有る時も、亦た当に心存して事苟もせざるべし。事有ると事無きと、内に存する者は異ならず。朱子の敬は事上に在りと謂ふ者は、心体内に存して、妙用外に応ずるなり。全く事上に在るに非ず。
現代語訳
朱子は「事がない時は、敬は内側にある。事がある時は、敬は事の上にある」と言いました。私篤信がひそかに思うに、居敬の工夫は、内と外を貫き、動と静を兼ねることが必要です。思うに事がない時は、この心はもちろん内に保たれているべきです。事がある時も、心を保って事をいい加減にしないようにすべきです。事がある時もない時も、内に保たれているものは変わりません。朱子が「敬は事の上にある」と言ったのは、心の本体は内に保たれていて、そのすぐれたはたらきが外に応じる、ということです。まったく事の上だけにあるのではありません。
解説
朱子の「無事の時は敬は裏面に在り、有事の時は敬は事上に在り」という言葉(『朱子語類』)を、誤解のないように補った条です。事に当たる時も心が内から離れるわけではない、というのが益軒の要点です。仕事に集中している時ほど、目の前の作業に心を奪われて、自分が何のために何をしているかを見失いがちです。忙しい時も静かな時も同じ心で事に当たる、という工夫は、落ち着いて仕事の質を保つための心構えとして読めます。
この章句が説くこと
敬居敬動静心工夫
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