慎思録 / 巻之五
人心之所欲者。義理也。故孟子曰。理義之悅我心。猶芻豢之悅我口。是姑以比喩形容之之辭爾。其實義理之悅我心。奚翅聲色臭味之悅我耳目口鼻之比乎哉。何則雖衆人。當赴其節義。則舍生而取義。赴死如歸者。皆然。人心悅義理之深。以此而可知而已矣。
新字:人心之所欲者。義理也。故孟子曰。理義之悦我心。猶芻豢之悦我口。是姑以比喩形容之之辞爾。其実義理之悦我心。奚翅声色臭味之悦我耳目口鼻之比乎哉。何則雖衆人。当赴其節義。則舎生而取義。赴死如帰者。皆然。人心悦義理之深。以此而可知而已矣。
書き下し
人心の欲する所の者は、義理なり。故に孟子曰く、理義の我が心を悦ばしむるは、猶ほ芻豢の我が口を悦ばしむるがごとし、と。是れ姑く比喩を以て之を形容するの辞のみ。其の実、義理の我が心を悦ばしむる、奚ぞ翅に声色臭味の我が耳目口鼻を悦ばしむるの比ならんや。何となれば則ち衆人と雖も、其の節義に赴くに当たりては、則ち生を舎てて義を取り、死に赴くこと帰るが如き者、皆然り。人心の義理を悦ぶことの深き、此を以て知るべきのみ。
現代語訳
人の心が求めるものは、義理です。だから孟子は「理と義が私の心を悦ばせるのは、牛や豚の肉が私の口を悦ばせるようなものだ」と言いました。これはひとまず、たとえでその様子を表した言葉にすぎません。実際には、義理が心を悦ばせることは、音や色や香りや味が耳目口鼻を悦ばせることとは比べものになりません。なぜなら、普通の人でも、節義に向かう場面では、命を捨てて義を取り、死に赴くことをまるで家に帰るように平然とする者がみなそうだからです。人の心が義理を悦ぶことの深さは、これによって知ることができます。
解説
『孟子』告子上で、孟子は、人の口が同じ味を好み、耳が同じ音を好むように、心も同じく理義を好むと説き、性善の根拠としました。芻豢は草を食べる牛羊と穀物を食べる犬豚で、ご馳走のことです。益軒は、この比喩ではむしろ足りないと言い、人が義のために命さえ捨てることを挙げて、心が義を悦ぶ深さは感覚の快楽をはるかに超えると説きます。「生を舎てて義を取る」も告子上の言葉です。損得を超えて正しいことをしたときの深い満足は、多くの人が経験で知っているはずです。
この章句が説くこと
義理性善心孟子節義
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