慎思録 / 巻之五
李白詩曰。以此醉中樂。勿使知醒者。此言醉者有樂。而醒者無樂也。李白是放達之人。與劉伶輩不同。然非知眞樂者也。葢醉中遣興得樂者。粗而淺。醒中知樂者。精而深。醉中之樂易知。醒中之樂難知。學者平日不醉時。更要知別常有娛樂之勝於醉時。此知眞樂也。苟知眞樂則不論醉與醒。醒亦樂。醉亦樂。隨時隨處。而無不樂。苟得眞樂如此。此與醉飽聲色宴遊之樂不同。君子何待醉時而後初樂耶。
新字:李白詩曰。以此酔中楽。勿使知醒者。此言酔者有楽。而醒者無楽也。李白是放達之人。与劉伶輩不同。然非知真楽者也。葢酔中遣興得楽者。粗而浅。醒中知楽者。精而深。酔中之楽易知。醒中之楽難知。学者平日不酔時。更要知別常有娯楽之勝於酔時。此知真楽也。苟知真楽則不論酔与醒。醒亦楽。酔亦楽。随時随処。而無不楽。苟得真楽如此。此与酔飽声色宴遊之楽不同。君子何待酔時而後初楽耶。
書き下し
李白の詩に曰く、此の酔中の楽しみを以て、醒者をして知らしむること勿かれ、と。此れ酔者には楽しみ有りて、醒者には楽しみ無きを言ふなり。李白は是れ放達の人にして、劉伶の輩と同じからず。然れども真の楽しみを知る者に非ざるなり。蓋し酔中に興を遣りて楽しみを得る者は、粗にして浅し。醒中に楽しみを知る者は、精にして深し。酔中の楽しみは知り易く、醒中の楽しみは知り難し。学者平日酔はざる時、更に別に常に娯楽の酔時に勝る有るを知ることを要す。此れ真の楽しみを知るなり。苟も真の楽しみを知れば則ち酔と醒とを論ぜず。醒むるも亦楽しく、酔ふも亦楽しく、時に随ひ処に随ひて、楽しからざる無し。苟も真の楽しみを得ること此くの如くならば、此れ酔飽声色宴遊の楽しみと同じからず。君子何ぞ酔時を待ちて而る後に初めて楽しまんや。
現代語訳
李白の詩に「この酔いの中の楽しみを、醒めている人に知らせてはならない」とあります。これは、酔っている者には楽しみがあり、醒めている者には楽しみがないということです。李白は物事にとらわれない人で、劉伶の仲間とは違います。しかし真の楽しみを知る人ではありません。そもそも酔いの中で興を晴らして楽しみを得るのは、粗くて浅いものです。醒めている中で楽しみを知るのは、細やかで深いものです。酔いの中の楽しみは知りやすく、醒めている中の楽しみは知りにくいのです。学ぶ者は、ふだん酔っていない時に、酔った時にまさる楽しみがいつも別にあることを知らなければなりません。これが真の楽しみを知ることです。もし真の楽しみを知れば、酔うか醒めるかを問いません。醒めても楽しく、酔っても楽しく、いつでもどこでも楽しくないことはありません。もし真の楽しみをこのように得られるなら、それは酒食や音楽・女色・宴遊の楽しみとは違います。君子がどうして酔う時を待って初めて楽しむでしょうか。
解説
この章句が説くこと
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