慎思録 / 巻之五
官祿以不如己者視己。則自以爲有餘。日日可喜樂。才德以逾於己者視己。則自以爲不足。日日可勉勵。問者求明善於人也。思者求明善於己也。求於人求於己而不休。此所以究理而致知之方也。
新字:官禄以不如己者視己。則自以為有余。日日可喜楽。才徳以逾於己者視己。則自以為不足。日日可勉励。問者求明善於人也。思者求明善於己也。求於人求於己而不休。此所以究理而致知之方也。
書き下し
官禄は己に如かざる者を以て己を視れば、則ち自ら以て余り有りと為し、日日喜楽すべし。才徳は己に逾ゆる者を以て己を視れば、則ち自ら以て足らずと為し、日日勉励すべし。問ふとは善を人に明らかにせんことを求むるなり。思ふとは善を己に明らかにせんことを求むるなり。人に求め己に求めて休まず。此れ理を究めて知を致すの方たる所以なり。
現代語訳
官職や俸禄は、自分に及ばない人と比べて自分を見れば、自分には余りあると思えて、毎日喜び楽しむことができます。才能や徳は、自分にまさる人と比べて自分を見れば、自分には足りないと思えて、毎日励むことができます。問うとは、善を人から明らかにしてもらうことを求めることです。思うとは、善を自分の中で明らかにすることを求めることです。人に求め、自分に求めて休まない。これが理を究めて知を極める方法なのです。
解説
益軒は、比べる相手の選び方で心の持ち方が変わると説きます。地位や収入は下と比べて満足し、才能や人格は上と比べて励む。多くの人はこれを逆にして、収入は上と比べて不満を抱き、人格は下と比べて安心してしまいます。後半は『中庸』第二十章の審問と慎思を、人に問うことと自分で思うことの両輪として示し、朱子学の窮理致知の方法とします。比較の向きを意識して変えるだけで、満足と向上心を同時に持つことができる。日々の心の整え方として、すぐに使える知恵です。
この章句が説くこと
知足勉励問思致知
関連する章句
-
『囲炉夜話』第百三十三則・常に某人の德業我に勝ると思へば自ら慚づべし常に某人の境界は我に及ばず、某人の命運は我に及ばずと思へば、則ち以て自ら足るべし。 常に某人の德業は我に勝り、某人の學問は我に勝ると思へば、則ち以て自ら慚づべし。
-
『慎思録』巻之一致知の工夫は、一身の中より、以て万物の理に至るまで、煩擾を厭はず。講究すること多ければ、則ち自然に豁然として覚悟すること有り。是れ格物究理の工夫にして、其の中当務を以て急と為し、本末緩急の序有り。紊すべからざるなり。若し一身に備はる所の道理を舎てて省みず、泛く万物の理を究めんと欲するは、此れ儒者の学に非ず、便ち術者の事なり。須らく本より末を領し、近きより遠きに到り、序に循ひて統紀有るべし。
-
『慎思録』巻之二君子は貧にして富み、賤にして貴く、不遇にして慊み無し。蓋し貧にして富むとは、足るを知りて貪らず、安閑にして自ら楽しむを言ふなり。賤にして貴しとは、仁義忠信、善を楽しみて倦まず、天爵我に在るを言ふなり。不遇にして慊み無しとは、命を知りて怨尤せざるを言ふなり。且つ閑散にして事無く、身常に安楽なるも、亦た不遇に由るなり。
-
『慎思録』巻之一凡そ書を読み理を究むる者は、博く且つ精しからんことを欲す。博ければ則ち天下の理に於て、通ぜざる所無し。精しければ則ち天下の理に於て、明らかならざる所無し。博と精と、二者備はりて、而る後に究理の学と為すべし。是れ致知の道なり。嗚呼究理の学、力を用ふること久しければ、則ち天下の理に於て、通明せざる所無し。其の楽しみ亦大ならずや。
-
『慎思録』巻之一孝弟忠信、礼義廉恥、慈愛恭敬を以て、日日己に求め、自ら其の足らざるを責めて休まず。是れ善を行ふと為すべし。孝弟忠信、礼義廉恥、慈愛恭敬を以て、日日人に求め、其の足らざるを責めて休まず。是れ悪を行ふと為すべし。善を行ふと悪を行ふとの分を知らんと欲せば、他無し。己に求むると人に求むるとの間なり。
-
『慎思録』巻之三本邦古来、忠臣孝子廉潔高行の者少なからず。澆漓の季世と雖も亦然り。文士の能く之を記する者無し。往往埋没して聞こゆる無き者、何ぞ勝げて計ふべけんや。此れ憾むべしと為すのみ。大凡格致の工夫、其の目に四有り。中庸の所謂博学審問慎思明弁、是れなり。此の四件は、其の一を闕けば則ち不可なり。而して博学を以て規模と為す。博学に非ざれば、則ち審問慎思明弁せんと欲すと雖も、然れども固陋偏狭にして、功を施す所無し。窃かに謂ふ、審問は博学に属し、明弁は慎思に属す。然らば則ち学を為すの道は、其の要学と思とに在るのみ。故に論語に曰く、学んで思はざれば則ち罔し、思うて学ばざれば則ち殆し、と。此れ学と思とを以て相対して説くに非ずや。夫れ博学審問の二者は、人に求むるなり。求むる所外に在り。慎思明弁の二者は、己に求むるなり。求むる所中に在り。故に博学審問すと雖も、然れども慎思明弁せざれば、則ち其の学ぶ所徒らに外に在り、汗漫にして自ら心に得る能はず。後の学者、博学なる者或いは之有り。然れども格物致知する能はざる者は、豈に徒らに博学を事として、慎思の功夫を闕くの故に非ずや。故に博学審問は、是れ開初発功の事なり。慎思明弁は、是れ成終収功の事なり。且つ学ぶ所氾濫すれば、則ち駁雑にして功無し。所謂誠意正心修身斉家治国平天下、此の六者は、則ち格物致知の目にして、博学の序なり。博学とは、之を学ぶのみ。是れ序に循ひて漸く進みて、本より末に往き、近きより遠きに行く者なり。然らば則ち古の所謂博学は、今の博学と異なれり。