慎思録 / 巻之四
山水風月之閑淡。芳草嘉木之生意。是君子之所愛觀也。對之。則開豁其心胸。淸和其情性。可以感興道心。蕩盡鄙吝。是有觸發于天機之益。故講學而有餘力。則可消搖遊觀。若逢良辰美景。則不可空放過。孔子登東山登泰山。亦有川上之嘆。周濂溪雅縱意林壑。平生之志。終在丘壑。明道慕泰山之勝。而有遊山之詩。再見周茂叔。吟風弄月而歸。朱子每經行處。聞有佳山水。雖迂途必往遊焉。皆是聖賢之所玩賞。而仁知之所喜樂也。若夫愛喧鬧繁華之境者。是俗人之所樂也。如紅白花開。濃艶芬郁之地。固可愛賞。雖與歌吹雜戯之塲不同。然不如靑山流水之閑淡。而味最多而已矣。
新字:山水風月之閑淡。芳草嘉木之生意。是君子之所愛観也。対之。則開豁其心胸。清和其情性。可以感興道心。蕩尽鄙吝。是有触発于天機之益。故講学而有余力。則可消揺遊観。若逢良辰美景。則不可空放過。孔子登東山登泰山。亦有川上之嘆。周濂渓雅縦意林壑。平生之志。終在丘壑。明道慕泰山之勝。而有遊山之詩。再見周茂叔。吟風弄月而帰。朱子毎経行処。聞有佳山水。雖迂途必往遊焉。皆是聖賢之所玩賞。而仁知之所喜楽也。若夫愛喧鬧繁華之境者。是俗人之所楽也。如紅白花開。濃艶芬郁之地。固可愛賞。雖与歌吹雑戯之塲不同。然不如青山流水之閑淡。而味最多而已矣。
書き下し
山水風月の閑淡、芳草嘉木の生意は、是れ君子の愛観する所なり。之に対すれば、則ち其の心胸を開豁し、其の情性を清和し、以て道心を感興し、鄙吝を蕩尽すべし。是れ天機を触発するの益有り。故に講学して余力有らば、則ち逍遥遊観すべし。若し良辰美景に逢はば、則ち空しく放過すべからず。孔子は東山に登り泰山に登り、亦た川上の嘆有り。周濂溪は雅に意を林壑に縦にし、平生の志、終に丘壑に在り。明道は泰山の勝を慕ひて、遊山の詩有り。再び周茂叔に見えて、風に吟じ月を弄して帰る。朱子は毎に経行する処、佳山水有るを聞けば、迂途と雖も必ず往きて遊ぶ。皆是れ聖賢の玩賞する所にして、仁知の喜楽する所なり。若し夫れ喧鬧繁華の境を愛する者は、是れ俗人の楽しむ所なり。紅白の花開き、濃艶芬郁の地の如きは、固より愛賞すべし。歌吹雑戯の場とは同じからずと雖も、然れども青山流水の閑淡にして、味最も多きに如かざるのみ。
現代語訳
山水や風月の静かで淡い趣、香り高い草や美しい木の生き生きとした様子は、君子が愛でて眺めるものです。これに向き合えば、胸の内が広々と開け、心持ちが清らかに和らぎ、道を求める心が呼び起こされ、卑しくけちな心が洗い流されます。これには天の機微を呼び覚ます益があります。ですから学問に励んで余力があれば、ぶらぶらと遊び眺めるのがよいのです。もし良い季節や美しい景色に出会ったら、むだに見過ごしてはいけません。孔子は東山に登り泰山に登り、また川のほとりで嘆きました。周濂溪は林や谷に心をゆだね、生涯の志はついに丘や谷にありました。程明道は泰山の景勝を慕って山遊びの詩を作り、再び周茂叔に会ったときには、風に吟じ月をめでて帰りました。朱子は旅の途中で良い山水があると聞けば、回り道でも必ず行って遊びました。これらはみな聖賢が愛でたものであり、仁者と知者が喜び楽しむものです。にぎやかで華やかな場所を愛するのは、俗人の楽しみです。紅白の花が咲き、濃く艶やかで香り高い所は、もちろん愛でてよいものです。歌や笛や遊芸の場とは違いますが、それでも青い山や流れる水の静かで淡い趣が、最も味わい深いのには及びません。
解説
この章句が説くこと
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