慎思録 / 巻之一
凡讀書究理者。欲博且精。博則於天下之理。無所不通。精則於天下之理。無所不明。博與精。二者備矣。而後可爲究理之學。是致知之道也。嗚呼究理之學。用力久。則於天下之理。無所不通明。其樂不亦大乎。
新字:凡読書究理者。欲博且精。博則於天下之理。無所不通。精則於天下之理。無所不明。博与精。二者備矣。而後可為究理之学。是致知之道也。嗚呼究理之学。用力久。則於天下之理。無所不通明。其楽不亦大乎。
書き下し
凡そ書を読み理を究むる者は、博く且つ精しからんことを欲す。博ければ則ち天下の理に於て、通ぜざる所無し。精しければ則ち天下の理に於て、明らかならざる所無し。博と精と、二者備はりて、而る後に究理の学と為すべし。是れ致知の道なり。嗚呼究理の学、力を用ふること久しければ、則ち天下の理に於て、通明せざる所無し。其の楽しみ亦大ならずや。
現代語訳
本を読み道理を窮める者は、広く、しかも精しくありたいと願います。広ければ天下の道理に通じないところがなく、精しければ天下の道理に明らかでないところがありません。広さと精しさの二つが備わって、初めて道理を窮める学問と言えます。これが知を極める道です。ああ、道理を窮める学問は、長く力を用いれば、天下の道理に通じて明らかでないところがなくなります。その楽しみはなんと大きいことでしょう。
解説
学問の二つの軸、博さと精しさを並べて説いた条です。博ければ通じ、精しければ明らかになるという対句で、両方が備わって初めて究理の学になると言います。朱子学の致知は、物の理を広く窮めることと一つ一つを深く窮めることの両方を含みます。最後に学問の楽しみを語っているのが印象的で、益軒にとって学びは苦行ではなく、長く続けるほど深まる喜びでした。広く浅くか狭く深くかで迷うとき、両方を時間をかけて育てるという答えを示してくれます。
この章句が説くこと
博精究理致知楽
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