慎思録 / 巻之二
君子貧而富。賤而貴。不遇而無慊。葢貧而富者。言知足而不貪。安閑而自樂也。賤而貴者。言仁義忠信。樂善而不倦。天爵在我也。不遇而無慊者。言知命而不怨尤也。且閑散而無事。身常安樂。亦由不遇也。
新字:君子貧而富。賤而貴。不遇而無慊。葢貧而富者。言知足而不貪。安閑而自楽也。賤而貴者。言仁義忠信。楽善而不倦。天爵在我也。不遇而無慊者。言知命而不怨尤也。且閑散而無事。身常安楽。亦由不遇也。
書き下し
君子は貧にして富み、賤にして貴く、不遇にして慊み無し。蓋し貧にして富むとは、足るを知りて貪らず、安閑にして自ら楽しむを言ふなり。賤にして貴しとは、仁義忠信、善を楽しみて倦まず、天爵我に在るを言ふなり。不遇にして慊み無しとは、命を知りて怨尤せざるを言ふなり。且つ閑散にして事無く、身常に安楽なるも、亦た不遇に由るなり。
現代語訳
君子は貧しくても富み、身分が低くても貴く、不遇でも不満がありません。思うに、貧しくても富むとは、足ることを知って貪らず、安らかでのどかに自ら楽しむことを言います。身分が低くても貴いとは、仁義忠信を備え、善を楽しんで倦まず、天爵が自分の内にあることを言います。不遇でも不満がないとは、命を知って天を怨まず人を咎めないことを言います。しかも暇でのんびりして用事がなく、身がいつも安楽なのも、不遇のおかげなのです。
解説
貧・賤・不遇という三つの逆境を、それぞれ富・貴・満足に読み替えた条です。「足るを知る」は『老子』第三十三章、「天爵」は『孟子』告子上、「天を怨みず人を尤めず」は『論語』憲問篇に由来します。最後の、不遇だからこそ暇があり身が安楽だ、という一言には、ユーモアと晩年の益軒の実感がにじみます。出世や評価に恵まれない時期を、ただ嘆くのではなく、自分を養う時間として楽しめるかどうか。心の持ち方次第で逆境は恵みになると教えてくれます。
この章句が説くこと
知足天爵知命楽不遇
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