慎思録 / 巻之五
後世秀才之爲文。其論固佳者多矣。然而人我克伐之念勝矣。故欲立己說而責人之小疵。動常傷于刻薄。雖有其說是者也。其心則非矣。浮躁淺露。非君子之氣象。其文字雖間有可採者。其人則猥陋可賤而巳矣。葢矜己者必欲勝人。此小人之心耳。
新字:後世秀才之為文。其論固佳者多矣。然而人我克伐之念勝矣。故欲立己説而責人之小疵。動常傷于刻薄。雖有其説是者也。其心則非矣。浮躁浅露。非君子之気象。其文字雖間有可採者。其人則猥陋可賤而巳矣。葢矜己者必欲勝人。此小人之心耳。
書き下し
後世の秀才の文を為る、其の論固より佳き者多し。然り而して人我克伐の念勝れり。故に己の説を立てて人の小疵を責めんと欲し、動もすれば常に刻薄に傷む。其の説是なる者有りと雖も、其の心は則ち非なり。浮躁浅露にして、君子の気象に非ず。其の文字間採るべき者有りと雖も、其の人は則ち猥陋にして賤しむべきのみ。蓋し己を矜る者は必ず人に勝たんと欲す。此れ小人の心のみ。
現代語訳
後世の秀才が文章を書くと、その論にはもちろん優れたものが多いのです。しかし他人と自分を比べ、人に勝ち自分を誇る思いが勝っています。だから自分の説を立てて人の小さな傷を責めようとし、ややもすればいつも冷酷に過ぎてしまいます。その説に正しいところがあっても、その心は間違っています。浮ついて軽く、底が浅く、君子の気象ではありません。その文章にはときに採るべきものがあっても、その人は卑しく、賤しむべきものにすぎません。そもそも自分を誇る者は必ず人に勝とうとします。これは小人の心にほかなりません。
解説
「克伐」は『論語』憲問篇に見える語で、克は人に勝とうとすること、伐は自分を誇ることです。益軒は、才気ある学者の論争文が、正しさを求めるより相手をやりこめることに傾く弊を指摘します。内容が正しくても、動機が勝ち負けにあれば、その心は君子のものではありません。これは江戸の学者どうしの激しい論争を見てきた益軒の実感でもあったでしょう。議論やSNSでの論評でも、相手の小さな誤りをあげつらう快感に流されていないか。論の正しさとともに、論じる心の姿勢が問われるのです。
この章句が説くこと
克伐驕り論争気象刻薄
関連する章句
-
『慎思録』巻之二己に善有り能有りて、人知らざる者は、乃ち人に係りて、己に於て相預からず。然るに己の善と能とを顕揚せんと欲して、自ら衒ひ自ら矜るは、其の卑陋甚だし。自ら楽しむこと能はず、且つ人の誹笑を招く。孰れか甚だしきを知らず。古人曰く、自ら誉め自ら媒する者は、士女の穢行なり、と。須らく自ら其の善を掩ひ、自ら其の才を晦ますべし。書に曰く、其の善を有とすれば厥の善を喪ひ、其の能に矜れば厥の功を喪ふ、と。誠なるかな、斯の言や。以て戒めと為すべし。
-
『慎思録』巻之五古来の偽道学者、往往過激の言を為して恥ぢず。其の言常に行ふ所に過ぎ、其の自ら処る所甚だ高きに過ぐ。苟難の行ひを為して、人に知らるることを求め、其の言行を詭異にし、且つ古人を誹議し、今人を蔑如し、世を驚かし俗を駭かす。是れ客気の為す所にして、英気有りて然るに非ず。自ら信じて以て人に信ぜられ、自ら欺きて以て人を欺く。是を以て世を欺きて名を盗むに足る。故に世人之を称述して、道学の士と為す。所謂之に居りて疑はず、邦に在りて必ず聞こゆるの人なり。偽道学と称すべく、真君子と為すべからざるなり。而して世人終に欺くべからず。其の真偽は久しくして後に自ら見はる。
-
『慎思録』巻之五古昔先正の言を立つる、若し両説同じからずして、倶に義理有る者は、是れ亦各一理を発明するのみ。偏廃すべからず。苟も虚心に玩味し、各文意に随ひて、其の理の在る所を求むれば、則ち当に並び行はれて悖らざるべし。其の同じからざる処も、亦自ら相妨げず。己の意を以て横に主張を作して、妄りに之を是非すべからず。是れ邪正是非曲直を辨ずる者とも亦自ら別なり。
-
『慎思録』巻之五好んで人の非を議する者は、其の心惨刻にして忠厚ならざるを見るべし。躬自ら厚くして薄く人を責むる、忠厚と謂ふべし。吾輩の学問の進まざる所以の者は何ぞや。蓋し旧習に安んじて故歩を変ずること能はざるに由るのみ。蓋し天地の気は、日に変化して息まず。化育盛大の功を成す所以なり。君子の学は天徳に法りて、日に新たにして已まず。上達の功有る所以なり。学者須らく旧習を除去して、日日に新たに、又日に新たにすることを要すべし。旧陋に因循すべからず。若し此くの如くならば、則ち長進に庶からん。然らずんば則ち自棄に終はるを免れざるのみ。
-
『慎思録』巻之二君子は己を責むるの心常に多く、人を責むるの心常に少なし。怨悪の心常に少なく、宥恕の心常に多し。坦として蕩々にして楽しみ多き所以なり。小人は之に反す。長く戚々として憂ひ多き所以なり。程子曰く、信に二般有り。人を信ずる者有り、自ら信ずる者有り。学者須らく自ら信ずることを要すべし。既に自ら信ずれば、怎生ぞ奪ふも亦た得ず、と。愚謂ふ、程子の言は、己に善有りて自ら信ずる者の為に発す。古語に所謂礼儀愆らずんば何ぞ人の言を恤へんと、淮南子に所謂自ら信ずる者は誹誉を以て遷すべからずといふ者の如き、是れなり。今の人を信ずる者の如きは、其の人に非ざるを信ず。是れ人を知らざるなり。自ら信ずる者、苟も吾が不是を知らずして自ら是とするは、是れ己を知らざるなり。二者の知らざること亦た甚だし。其の自ら信ずる者は、孔子の所謂之に居りて疑はざる者なり。厚顔自ら亢ぶり、是れ自ら我が非を信じて疑はざる者なり。是を以て人を欺くに足る。然れども昧き者は其の非を弁ずること能はず。此を以て妄りに其の人を信ずる者も、亦た之有り。唯だ信ずべきの人を信ずれば、便ち以て人を信ずるの道を得たりと為すべきなり。今人は信ずべきの人を信ぜずして、却って信ずべからざるの人を信ず。不明にして妄謬なりと謂ふべきなり。
-
『慎思録』巻之五好んで人の悪を揚げ、人の善を蔽ふ者は、不善焉より大なるは莫し。近世道学を以て名を立つるの儒、此の病有るを免れず。省察して之を戒めざるべけんや。本邦の書生の詞章を作るや、常に好んで詭異の文字を用ひ、那の尋常の文字を換却す。習ひて以て常と為す。苟も此くの如くならずんば、則ち誹議して以て拙俗と為す。近世以来最も甚だしと為す。俗尚の卑凡なること此くの如し。奇巧を欲すれば則ち愈拙陋なることを知らず。朱子称す、欧公・三蘇の文の好き処は、只是れ平易に道理を説きて、初めより曾て差異底の字を使はず、と。朱子の此の言、作文の法と為すべし。