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近思録 / 巻5 克己

人能克己、則心廣體胖。仰不愧、俯不怍。其樂可知。有息則餒矣。聖人責己感也處多、責人應也處少。謝子與伊川別一年、往見之。伊川曰:相別一年、做得甚工夫?謝曰:也只去箇矜字。曰:何故?曰:子細檢點得來、病痛盡在這裏。若按伏得這箇罪過、方有向盡處。伊川點頭、因語在坐同志者曰:此人爲學、切問近思者也。思叔詬詈僕夫、伊川曰:何不「動心忍性」。思叔慙謝。見賢便思齊、有爲者亦若是。見不賢而內自省、蓋莫不在己。橫渠先生曰:湛一氣之本、攻取氣之欲。口腹於飲食、鼻口於臭味、皆攻取之性也。知德者屬厭而已。不以嗜欲累其心、不以小害大、末喪本焉爾。纖惡必除、善斯成性矣。察惡未盡、雖善必粗矣。惡不仁、故不善未嘗不知。徒好仁而不惡不仁、則習不察、行不著。是故、徒善未必盡義、徒是未必盡仁。好仁而惡不仁、然後盡仁義之道。責己者當知無天下國家皆非之理。故學至於不尤人、學之至也。有潛心於道、怱怱爲他慮引去者、此氣也。舊習纏繞、未能脫洒、畢竟無益。但樂於舊習耳。古人欲得朋友、與琴瑟簡編、常使心在於此。惟聖人知朋友之取益爲多。故樂得朋友之來。仁之難成久矣。

新字:人能克己、則心広体胖。仰不愧、俯不怍。其楽可知。有息則餒矣。聖人責己感也処多、責人応也処少。謝子与伊川別一年、往見之。伊川曰:相別一年、做得甚工夫?謝曰:也只去箇矜字。曰:何故?曰:子細検点得来、病痛尽在這裏。若按伏得這箇罪過、方有向尽処。伊川点頭、因語在坐同志者曰:此人為学、切問近思者也。思叔詬詈僕夫、伊川曰:何不「動心忍性」。思叔慚謝。見賢便思斉、有為者亦若是。見不賢而内自省、蓋莫不在己。横渠先生曰:湛一気之本、攻取気之欲。口腹於飲食、鼻口於臭味、皆攻取之性也。知徳者属厭而已。不以嗜欲累其心、不以小害大、末喪本焉爾。繊悪必除、善斯成性矣。察悪未尽、雖善必粗矣。悪不仁、故不善未嘗不知。徒好仁而不悪不仁、則習不察、行不著。是故、徒善未必尽義、徒是未必尽仁。好仁而悪不仁、然後尽仁義之道。責己者当知無天下国家皆非之理。故学至於不尤人、学之至也。有潜心於道、怱怱為他慮引去者、此気也。旧習纏繞、未能脱洒、畢竟無益。但楽於旧習耳。古人欲得朋友、与琴瑟簡編、常使心在於此。惟聖人知朋友之取益為多。故楽得朋友之来。仁之難成久矣。

書き下し

人能く己に克てば、則ち心広く体胖かなり。仰ぎて愧ぢず、俯して怍ぢず。其の楽しみ知るべし。息む有れば則ち餒う。聖人は己を責むること感の処多く、人を責むること応の処少なし。謝子伊川と別るること一年、往きて之に見ゆ。伊川曰く、「相別るること一年、甚の工夫をか做し得たる」と。謝曰く、「也た只だ箇の矜の字を去るのみ」と。曰く、「何の故ぞ」と。曰く、「子細に検点し得来たれば、病痛尽く這裏に在り。若し這箇の罪過を按伏し得れば、方に尽くるに向かふ処有り」と。伊川点頭し、因りて坐に在る同志の者に語りて曰く、「此の人の学を為す、切に問ひて近く思ふ者なり」と。思叔僕夫を詬詈す、伊川曰く、「何ぞ『心を動かし性を忍』ばざる」と。思叔慙謝す。賢を見ては便ち斉しからんことを思ふ、為す有る者も亦た是くの若し。不賢を見ては内に自ら省みる、蓋し己に在らざるは莫し。横渠先生曰く、湛一は気の本、攻取は気の欲なり。口腹の飲食に於ける、鼻口の臭味に於ける、皆攻取の性なり。徳を知る者は厭くに属するのみ。嗜欲を以て其の心を累はさず、小を以て大を害せず、末もて本を喪はざるのみ。繊悪必ず除けば、善斯に性を成す。悪を察すること未だ尽くさざれば、善と雖も必ず粗なり。不仁を悪む、故に不善未だ嘗て知らずんばあらず。徒だ仁を好みて不仁を悪まざれば、則ち習ひて察せず、行ひて著らかならず。是の故に、徒善は未だ必ずしも義を尽くさず、徒是は未だ必ずしも仁を尽くさず。仁を好みて不仁を悪みて、然る後に仁義の道を尽くす。己を責むる者は当に天下国家皆非なるの理無きを知るべし。故に学んで人を尤めざるに至るは、学の至りなり。道に潜心する有りて、怱怱として他慮の為に引き去らるる者は、此れ気なり。旧習纏繞して、未だ脱洒する能はず、畢竟益無し。但だ旧習を楽しむのみ。古人は朋友と琴瑟簡編とを得んと欲し、常に心をして此に在らしむ。惟だ聖人のみ朋友の益を取ること多きを為すを知る。故に朋友の来たるを楽しむ。仁の成り難きこと久し。

現代語訳

人が己に克てば、心は広く体はのびやかになる。天を仰いで恥じることなく、地に俯して恥じることもない。その楽しみは推して知るべきである。少しでも途切れれば、気はしぼんでしまう。聖人は、自分を責めるときは人の心を動かす側としての責任を多く見て、人を責めるときは応じる側の責任を少なく見る。謝子(謝良佐)が伊川と別れて一年たって、会いに行った。伊川が言った。「別れて一年、どんな工夫をしてきたか」。謝良佐が言った。「ただ矜(ほこり)の一字を取り去っただけである」。「なぜか」。「細かく点検してみると、病はすべてここにあった。もしこの罪過を押さえ伏せることができれば、ようやく尽きる方向に向かうところがある」。伊川はうなずき、居合わせた同志たちに言った。「この人の学問は、切実に問い、身近に考える者である」。思叔(ししゅく、張繹の字)が下僕を口汚くののしった。伊川が言った。「どうして『心を動かし本性を耐え忍ぶ』ことをしないのか」。思叔は恥じて謝った。賢い人を見ればすぐに同じようになろうと思う。何かを成す者もまたこのようである。賢くない人を見ては内に自ら省みる。思うに、すべては自分にある。横渠先生は言った。澄んで一つであることが気の本であり、外の物を攻め取ろうとするのが気の欲である。口と腹が飲食を求め、鼻と口が香りや味を求めるのは、みな攻め取る性である。徳を知る者は、満ち足りればそれでやめるだけである。嗜欲によって心をわずらわせず、小さなもので大きなものを損なわず、末のために本を失わないだけである。わずかな悪も必ず除けば、善がそこで本性を完成させる。悪を察することがまだ尽くされていなければ、善であってもきっと粗い。不仁を憎むから、不善に気づかないことはない。ただ仁を好むだけで不仁を憎まなければ、習っても察せず、行ってもはっきりしない。だから、ただ善いだけでは必ずしも義を尽くさず、ただ正しいだけでは必ずしも仁を尽くさない。仁を好み不仁を憎んで、はじめて仁義の道を尽くす。自分を責める者は、天下国家がすべて間違っているという道理はないと知るべきである。だから学んで人をとがめなくなるに至るのが、学問の極みである。道に心を沈めながら、慌ただしく他の考えに引き去られるのは、気のせいである。古い習慣がまとわりついて抜け出せないのは、結局何の益もない。ただ古い習慣を楽しんでいるだけである。昔の人は友と琴瑟と書物とを得ようとし、常に心をそこに置いていた。ただ聖人だけが、友から得る益が多いことを知っていた。だから友が来ることを楽しんだのである。仁が成りがたくなって久しい。

解説

程頤の門下の逸話と張載の語が並ぶ条である。謝良佐が一年かけて「矜」、すなわち自負や誇りの一字を去ることに努め、病痛はすべてここにあったと答えた話は、慢心こそ学びの最大の障害だという教えとして名高い。張繹が下僕を罵ったのを孟子の「動心忍性」で戒める場面も、克己が日常の言動に及ぶことを示す。張載は、気の本である湛一と、欲である攻取を分け、わずかな悪も除かねば善は粗いという。さらに、自分を責める者は天下国家がすべて悪いという理屈はないと知れと言い、人を咎めないことを学の至りとする。成果が出ないとき、環境や他人のせいにしたくなる。その前に自分の矜を点検せよという教えである。

この章句が説くこと

矜克己攻取不尤人朋友

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