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慎思録 / 巻之五

東坡平日之學術言論。浸淫於浮屠。可謂其昏迷之深也。然至作六一居士集序。乃曰。歐陽子沒十有餘年。士始爲新學。以佛老之似。亂周孔之實。識者憂之。韓文公廟碑亦以闢異端詆佛爲尙。東坡之言。何其與平生之所好相齟齬如此耶。恰如聞兩人之言。可謂其志識無一定之專主。隨事而依違也。其學術之不純一也如此。可以見其爲人也。

新字:東坡平日之学術言論。浸淫於浮屠。可謂其昏迷之深也。然至作六一居士集序。乃曰。欧陽子没十有余年。士始為新学。以仏老之似。乱周孔之実。識者憂之。韓文公廟碑亦以闢異端詆仏為尚。東坡之言。何其与平生之所好相齟齬如此耶。恰如聞両人之言。可謂其志識無一定之専主。随事而依違也。其学術之不純一也如此。可以見其為人也。

書き下し

東坡平日の学術言論は、浮屠に浸淫す。其の昏迷の深きと謂ふべし。然れども六一居士集の序を作るに至りて、乃ち曰く、欧陽子没して十有余年、士始めて新学を為し、仏老の似たるを以て、周孔の実を乱す。識者之を憂ふ、と。韓文公廟碑も亦異端を闢き仏を詆るを以て尚しと為す。東坡の言、何ぞ其れ平生の好む所と相齟齬すること此くの如きや。恰も両人の言を聞くが如し。其の志識一定の専主無く、事に随ひて依違すと謂ふべし。其の学術の純一ならざるや此くの如し。以て其の人と為りを見るべし。

現代語訳

蘇東坡の平生の学問や言論は、仏教に深く染まっています。その迷いの深さと言うべきです。ところが「六一居士集序」を作ると、「欧陽子が亡くなって十年余り、士人は初めて新学を唱え、仏教や老荘の似て非なるもので周公・孔子の実を乱した。見識ある者はこれを憂えている」と言いました。「韓文公廟碑」でもまた、異端を退け仏教をそしったことを尊いとしています。東坡の言葉は、なんと平生の好みとこのように食い違っているのでしょう。まるで二人の人の言葉を聞くようです。その志と見識に一定の主軸がなく、事柄に応じてどっちつかずに揺れていると言うべきです。その学問が純一でないことはこのようです。これによってその人柄が見てとれます。

解説

前条に続く蘇軾論です。「六一居士集序」は欧陽脩の文集に寄せた序、「潮州韓文公廟碑」は仏教を排撃した韓愈を讃えた碑文で、どちらも儒学の正統を守る立場から書かれています。しかし蘇軾自身は禅に親しみ、仏教の影響を深く受けた文人でした。益軒は、場面によって主張が変わるのは、志と見識に一貫した軸がないからだと見ます。文章の名手であるほど、求められる場にふさわしいことが書けてしまうものです。自分の言葉が場当たりになっていないか、一貫した考えに根ざしているかを点検させる一条です。

この章句が説くこと

一貫蘇軾異端

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