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慎思録 / 巻之五

人生所受之吉凶禍福。無非命。別而言之。則有命有分。君子小人。各得其所當得者爲分。所不可得而得之者爲命。分者自致者也。命者無致而至者也。東坡三槐堂銘說天道福善禍淫之理必然。固可謂分曉。然是偏說分之可得者而已。未說及于命之有幸有不幸者。葢君子之得福者分也。其得禍者命也。非分。小人之得禍者分也。其得福者命也。非分。顏子之貧且夭者命也。非分也。盜跖之富且壽者亦命也。非分也。是故人之在世也。有命有分。不可一槩而論。然分亦命數之所素定。而所當得也。命者雖出于偶然。而非所招致。然是亦自天所降之定分也。故二者。合而論之則一也。命而已矣。

新字:人生所受之吉凶禍福。無非命。別而言之。則有命有分。君子小人。各得其所当得者為分。所不可得而得之者為命。分者自致者也。命者無致而至者也。東坡三槐堂銘説天道福善禍淫之理必然。固可謂分暁。然是偏説分之可得者而已。未説及于命之有幸有不幸者。葢君子之得福者分也。其得禍者命也。非分。小人之得禍者分也。其得福者命也。非分。顔子之貧且夭者命也。非分也。盗跖之富且寿者亦命也。非分也。是故人之在世也。有命有分。不可一槩而論。然分亦命数之所素定。而所当得也。命者雖出于偶然。而非所招致。然是亦自天所降之定分也。故二者。合而論之則一也。命而已矣。

書き下し

人生受くる所の吉凶禍福は、命に非ざる無し。別ちて之を言へば、則ち命有り分有り。君子小人、各其の当に得べき所の者を得るを分と為し、得べからざる所にして之を得るを命と為す。分は自ら致す者なり。命は致す無くして至る者なり。東坡の三槐堂銘、天道の善に福し淫に禍するの理の必然なるを説く。固より分暁と謂ふべし。然れども是れ偏に分の得べき者を説くのみ。未だ命の幸有り不幸有る者に説き及ばず。蓋し君子の福を得るは分なり。其の禍を得るは命なり。分に非ず。小人の禍を得るは分なり。其の福を得るは命なり。分に非ず。顔子の貧にして且つ夭なるは命なり。分に非ざるなり。盗跖の富にして且つ寿なるも亦命なり。分に非ざるなり。是の故に人の世に在るや、命有り分有り。一概にして論ずべからず。然れども分も亦命数の素より定むる所にして、当に得べき所なり。命は偶然に出づと雖も、招致する所に非ず。然れども是れ亦天より降す所の定分なり。故に二者、合せて之を論ずれば則ち一なり。命のみ。

現代語訳

人が一生に受ける吉凶禍福は、すべて命です。分けて言えば、命と分とがあります。君子も小人も、それぞれ当然得るべきものを得るのが分であり、得るはずのないものを得るのが命です。分は自分で招くものであり、命は招かずにやってくるものです。蘇東坡の「三槐堂銘」は、天の道が善に福を与え悪に禍を与える理が必然であると説いています。もちろん明快と言えます。しかしこれは、分として得るべきものばかりを説いているにすぎず、命に幸と不幸があることには説き及んでいません。そもそも君子が福を得るのは分であり、禍を得るのは命であって分ではありません。小人が禍を得るのは分であり、福を得るのは命であって分ではありません。顔回が貧しく若死にしたのは命であって分ではありません。盗跖が富んで長生きしたのも命であって分ではありません。だから人がこの世にあるとき、命と分とがあり、一概に論じてはなりません。しかし分もまた天の定めによって前もって決められ、当然得るべきものです。命は偶然から出るとはいえ、自分で招いたものではありません。しかしこれもまた天から下された定めです。だから二つは合わせて論じれば一つ、命にほかならないのです。

解説

益軒は禍福を、行いの結果として当然得る「分」と、行いと無関係にやってくる「命」とに分けます。蘇軾の「三槐堂銘」は王氏一族の繁栄を善行の報いとして讃えた文です。顔回は孔子の最愛の弟子でありながら貧しく早世し、盗跖は大盗賊でありながら天寿を全うしたとされ、『史記』伯夷列伝でも天道は是か非かと問われる題材です。努力が報われないこともあると認めつつ、それも天命として受けとめる。結果に一喜一憂せず、自分のなすべきことに集中するための考え方として、今も参考になります。

この章句が説くこと

禍福天命顔回

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