楽訓 / 巻之上・総論
一凡生けるもの、靜にいとまあるはまれなり。富貴の人は、古より世ごとにおほけれど、心安くして憂苦なく、身閑にいとまありて、つねに樂む人は、世にまれなり。是を以て、淸福の樂、富貴にまされること、はるかに越えたることを知るべし。おろかなる人は、淸福を得ても、知らずして樂まず。又淸福を知りても、身に淸福なければ此樂なし。此淸福を得る人、世にすくなきは、天の惜み給ふ所なれば、尤得がたしといへり。もし此淸福の樂を知りて、淸福を得たらん人は、世に類すくなき福なり。天の物を生ずる、二ながら全からず。花よきものは、實よからざるが如し。すでに淸福を得たる人は、さらに富貴を願ふべからず。二ながら得んとするは、欲ふかくして、天命にそむけり。かゝる樂を得ても、猶外をねがひ、富貴をうらやみて、自ら足る事を知らざるは、分を知らずして、樂をわするゝなり。愚なるかな。
新字:一凡生けるもの、静にいとまあるはまれなり。富貴の人は、古より世ごとにおほけれど、心安くして憂苦なく、身閑にいとまありて、つねに楽む人は、世にまれなり。是を以て、清福の楽、富貴にまされること、はるかに越えたることを知るべし。おろかなる人は、清福を得ても、知らずして楽まず。又清福を知りても、身に清福なければ此楽なし。此清福を得る人、世にすくなきは、天の惜み給ふ所なれば、尤得がたしといへり。もし此清福の楽を知りて、清福を得たらん人は、世に類すくなき福なり。天の物を生ずる、二ながら全からず。花よきものは、実よからざるが如し。すでに清福を得たる人は、さらに富貴を願ふべからず。二ながら得んとするは、欲ふかくして、天命にそむけり。かゝる楽を得ても、猶外をねがひ、富貴をうらやみて、自ら足る事を知らざるは、分を知らずして、楽をわするゝなり。愚なるかな。
書き下し
一凡生けるもの、静にいとまあるはまれなり。富貴の人は、古より世ごとにおほけれど、心安くして憂苦なく、身閑にいとまありて、つねに楽む人は、世にまれなり。是を以て、清福の楽、富貴にまされること、はるかに越えたることを知るべし。おろかなる人は、清福を得ても、知らずして楽まず。又清福を知りても、身に清福なければ此楽なし。此清福を得る人、世にすくなきは、天の惜み給ふ所なれば、尤得がたしといへり。もし此清福の楽を知りて、清福を得たらん人は、世に類すくなき福なり。天の物を生ずる、二ながら全からず。花よきものは、実よからざるが如し。すでに清福を得たる人は、さらに富貴を願ふべからず。二ながら得んとするは、欲ふかくして、天命にそむけり。かかる楽を得ても、猶外をねがひ、富貴をうらやみて、自ら足る事を知らざるは、分を知らずして、楽をわするるなり。愚なるかな。
現代語訳
およそ生きている者で、静かで暇のある者はまれです。富貴の人は昔から代々多くいますが、心安らかで憂いや苦しみがなく、身は静かで暇があって常に楽しむ人は、世にまれです。このことから、清福の楽しみが富貴にまさることは、はるかに越えていると知るべきです。愚かな人は清福を得ても、それと知らずに楽しみません。また清福を知っていても、身に清福がなければこの楽しみはありません。この清福を得る人が世に少ないのは、天が惜しまれるところだからで、最も得がたいと言われています。もしこの清福の楽しみを知って、しかも清福を得た人は、世に類の少ない福の持ち主です。天が物を生じるとき、二つながら完全にはしません。花のよいものは実がよくないようなものです。すでに清福を得た人は、さらに富貴を願ってはなりません。両方を得ようとするのは欲が深く、天命に背いています。このような楽しみを得ていても、なお外を願い富貴をうらやんで、自ら足ることを知らないのは、分を知らずに楽しみを忘れているのです。愚かなことです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之三家姪好古病危篤の時、之に示して曰く、吾子の生死未だ知るべからず。而して人と為るを得、男子と為るを得、士と為りて禄有るを得、父母倶に存するを得。且つ人生未だ襁褓を免れずして早夭する者有り。吾子今既に強仕の年に近し。凶短折と言ふべからず。况んや聖賢の書を読み、和漢古今の事に通じ、書を著すこと数部、名を四方に播くをや。嗚呼其の幸為ること亦大なるかな。栄啓期の三楽、奚ぞ以て羨むに足らんや。既に義子有れば、則ち父母の養、亦豈に給せざるを患へんや。人固より年耄期に至る者有り。然れども其の人と為りや、学ばずして意愚なり。韓子曰く、人古今に通ぜざれば、馬牛にして襟裾す、と。豈に其の長生を羨まんや。凡そ天地の間、盛有れば必ず衰有り、始有れば必ず終有り。長寿の者有り、短夭の者有り。皆是れ天の命ずる所にして、各分有り。是れ天地の理、物の自然、人の常道なり。奚ぞ哀しむべけんや。陶淵明曰く、尽くべくんば便ち須らく尽くべし、復た独り多く慮ること無かれ、と。又曰く、夫の天命を楽しむ、復た奚をか疑はん、と。達者の言と謂ふべし。君子存すれば則ち順ひ事へ、没すれば寧し。此れ乃ち天に事ふるの道、終身の事なり。蓋し帰尽の際は、君子一生の大事なり。一念憾み有れば、則ち一世の功悉く亡ぶ。最も当に慎むべき所なり。故に易に曰く、日昃の離、缶を鼓ちて歌はざれば、則ち大耋の嗟あり、と。此れ聖人の教戒なり。故に以て告ぐ。
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『論語と算盤』処世と信条・天は人を罰せず孔夫子が『罪を天に獲れば、祷る所なし』と言われた言葉のうちにある天とは、果たして何であろうか。私は天とは天命の意味で、孔夫子もまたこの意味において天なる語を用いられたものと信ずるのである。人間が世の中に活き働いているのは天命である。草木には草木の天命あり、鳥獣には鳥獣の天命がある。この天命がすなわち天の配剤となって顕れ、同じ人間のうちには、酒を売るものがあったり、餅を売ったりする者があったりするのである。天命にはいかなる聖人賢者とても、必ず服従を余儀なくせられるもので、堯といえどもわが子の丹朱をして帝位を継がしむることあたわず、舜といえどもまた太子の商均をして位に即かしむるわけには行かなかったのである。これみな天命のしからしむるところで、人力のいかんともすべからざるところである。草木はどうしても草木で終わらねばならぬもので、鳥獣に成ろうとして成り得られるものでない。鳥獣とてもまたいかに成ろうとしたからとても、草木には成り得られぬものである。畢竟みな天命である。これによって稽えて見ても、人間は天命に従って行動せねばならぬものであることがすこぶる明らかになる。
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『慎思録』巻之四人の命を天に禀くるや、其の資各厚薄崇卑有り。故に富貴貧賤吉凶禍福は、皆天に繋る。其の禀受するや、自ら定分有りて、遷し移すべからず。唯だ須らく法を行ひ安静にして、以て天命を俟つべきのみ。昧き者は此の理に達せず、以為へらく人力移し奪ふべし、と。故に常に自ら僥倖し、富貴を貪り求め、貧賤を厭ひ悪む。此れ命を知らずして義を失ふに繇るなり。然れども之を求めて得ること能はず、之を避けて免るること能はず。徒らに心力を費やすのみ。故に孔子曰く、命を知らざれば、以て君子為ること無きなり、と。
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『楽訓』巻之下・後論富貴をきはめて、万の事心のままなる人も、唯命のさいはひのみ心にかなはず。されども是また生れつきて天命の定まれる所なれば、みじかしとて悲むべき理にあらず。此理に達し、天命を楽みて、身ををはるべし。死ぬる時、もし苦みかなしまば、平生楽めりとも、かひなかるべし。をはりを慎むべし。たとへば松は千年をたもち、槿花は唯一日のみ。長短各ことなり。是生れつきて定まれる分あれば、みじかきは長きを羨むべからず、各其分を安んずべし。
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『慎思録』巻之五人生受くる所の吉凶禍福は、命に非ざる無し。別ちて之を言へば、則ち命有り分有り。君子小人、各其の当に得べき所の者を得るを分と為し、得べからざる所にして之を得るを命と為す。分は自ら致す者なり。命は致す無くして至る者なり。東坡の三槐堂銘、天道の善に福し淫に禍するの理の必然なるを説く。固より分暁と謂ふべし。然れども是れ偏に分の得べき者を説くのみ。未だ命の幸有り不幸有る者に説き及ばず。蓋し君子の福を得るは分なり。其の禍を得るは命なり。分に非ず。小人の禍を得るは分なり。其の福を得るは命なり。分に非ず。顔子の貧にして且つ夭なるは命なり。分に非ざるなり。盗跖の富にして且つ寿なるも亦命なり。分に非ざるなり。是の故に人の世に在るや、命有り分有り。一概にして論ずべからず。然れども分も亦命数の素より定むる所にして、当に得べき所なり。命は偶然に出づと雖も、招致する所に非ず。然れども是れ亦天より降す所の定分なり。故に二者、合せて之を論ずれば則ち一なり。命のみ。
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『十善法語』巻第五・不綺語戒古ニモ楽トハ情ノ変スヘカラサル者ナリトアル。弦歌千揚ハ楽ノ末節トアル。大君ハ大君ノ楽有ヘク。執政大臣ハ執政大臣ノ楽アルヘク。士農工商ハ士農工商ノ楽アルヘク。君子ハ君子ノ楽ヲ楽ムヘク。小人ハ小人ノ楽ヲ楽ムヘキシヤ。凡ソ誠ノ楽ハ天ノ与フル所ニ在テ。天地ト共ニ尽ルコトナイ。且ク近キニ約シテ天ト説ケトモ。実ハ法性等流ソ。其楽身心ト共ニ際限ナキシヤ。貴賤尊卑。智愚大小。浅深ノ別ハアレトモ。其心ノ楽ハ一シヤ。其天ノ付与スルトコロハ一シヤ。ナセソ。道ハ浅深ナイモノシヤ。法ハ高下ヲ離レタモノシヤ。
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