論語と算盤 / 処世と信条・天は人を罰せず
孔夫子が『罪を天に獲れば、禱る所なし』と曰はれた言葉のうちにある天とは、果して何であらうか、私は天とは天命の意味で、孔夫子も亦この意味に於て天なる語を用ゐられたものと信ずるのである。人間が世の中に活き働いてるのは天命である、草木には草木の天命あり、鳥獣には鳥獣の天命がある、此の天命が即ち天の配剤となつて顕はれ、同じ人間のうちには、酒を売るものがあつたり、餅を売つたりする者があつたりするのである、天命には如何なる聖人賢者とても、必ず服従を余儀なくせられるもので、堯と雖も吾が子の丹朱をして帝位を継がしむること能はず、舜と雖も亦太子の商均をして位に即かしむるわけには行かなかつたのである、これ皆天命の然らしむる所で、人力の如何ともすべからざる所である、草木はどうしても草木で終らねばならぬもので、鳥獣に成らうとして成り得られるものでない、鳥獣とても亦如何に成らうとしたからとても、草木には成り得られぬものである、畢竟みな天命である、之によつて稽へて見ても、人間は天命に従つて行動せねばならぬものであることが頗る明かになる。
新字:孔夫子が『罪を天に獲れば、祷る所なし』と曰はれた言葉のうちにある天とは、果して何であらうか、私は天とは天命の意味で、孔夫子も亦この意味に於て天なる語を用ゐられたものと信ずるのである。人間が世の中に活き働いてるのは天命である、草木には草木の天命あり、鳥獣には鳥獣の天命がある、此の天命が即ち天の配剤となつて顕はれ、同じ人間のうちには、酒を売るものがあつたり、餅を売つたりする者があつたりするのである、天命には如何なる聖人賢者とても、必ず服従を余儀なくせられるもので、堯と雖も吾が子の丹朱をして帝位を継がしむること能はず、舜と雖も亦太子の商均をして位に即かしむるわけには行かなかつたのである、これ皆天命の然らしむる所で、人力の如何ともすべからざる所である、草木はどうしても草木で終らねばならぬもので、鳥獣に成らうとして成り得られるものでない、鳥獣とても亦如何に成らうとしたからとても、草木には成り得られぬものである、畢竟みな天命である、之によつて稽へて見ても、人間は天命に従つて行動せねばならぬものであることが頗る明かになる。
書き下し
孔夫子が『罪を天に獲れば、祷る所なし』と言われた言葉のうちにある天とは、果たして何であろうか。私は天とは天命の意味で、孔夫子もまたこの意味において天なる語を用いられたものと信ずるのである。人間が世の中に活き働いているのは天命である。草木には草木の天命あり、鳥獣には鳥獣の天命がある。この天命がすなわち天の配剤となって顕れ、同じ人間のうちには、酒を売るものがあったり、餅を売ったりする者があったりするのである。天命にはいかなる聖人賢者とても、必ず服従を余儀なくせられるもので、堯といえどもわが子の丹朱をして帝位を継がしむることあたわず、舜といえどもまた太子の商均をして位に即かしむるわけには行かなかったのである。これみな天命のしからしむるところで、人力のいかんともすべからざるところである。草木はどうしても草木で終わらねばならぬもので、鳥獣に成ろうとして成り得られるものでない。鳥獣とてもまたいかに成ろうとしたからとても、草木には成り得られぬものである。畢竟みな天命である。これによって稽えて見ても、人間は天命に従って行動せねばならぬものであることがすこぶる明らかになる。
現代語訳
孔子が「罪を天に得れば、祈るところがない」と言われた言葉の中の天とは、いったい何であろうか。私は、天とは天命の意味であり、孔子もまたこの意味で天という語を用いられたのだと信じている。人間が世の中に生きて働いているのは天命である。草木には草木の天命があり、鳥獣には鳥獣の天命がある。この天命が天の配剤となって現れ、同じ人間の中にも、酒を売る者がいたり、餅を売る者がいたりするのである。天命には、どんな聖人や賢者であっても必ず従わざるをえない。堯でさえ我が子の丹朱に帝位を継がせることはできず、舜でさえ太子の商均を位に就かせるわけにはいかなかったのである。これはみな天命がそうさせたのであって、人の力ではどうにもならないところである。草木はどうしても草木で終わらねばならず、鳥獣になろうとしてなれるものではない。鳥獣もまた、どれほどなろうとしても草木にはなれない。つまるところ、すべて天命である。このことから考えてみても、人間は天命に従って行動しなければならないものだということが、きわめて明らかになる。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』処世と信条・天は人を罰せずされば孔子が言われた『罪を天に獲る』とは、無理な真似をして不自然の行動に出るという意味であろうかと思う。無理な真似をしたり不自然な行動をすれば、必ず悪い結果を身の上に受けねばならぬに極まっている。その時になって、その尻をどこかへ持ってゆこうとしたところで、元来が無理や不自然なことをして自ら招いた応報であるから、どこへも持って行き所がないということになる。これがすなわち『祷る所なし』との意味である。
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『論語と算盤』処世と信条・天は人を罰せず孔夫子は論語陽貨篇において、『天何言哉、四時行焉、百物生焉、天何言哉』と仰せられ、また孟子も万章章句上において、『天不言、以行与事示之而已』と言われている通り、人間が無理な真似をしたり不自然な行動をしたりなぞして罪を天に獲たからとて、天が別に物を言ってその人に罰を加えるわけでも何でもない。周囲の事情によってその人が苦痛を感ずるようになるだけである。これがすなわち天罰というものである。人間がいかにこの天罰から免れようとしても、決して免れ得べきものではない。自然に四時の季節が行われ、天地万物の生育するごとくに、天命は人の身の上に行われてゆくものである。ゆえに孔夫子も中庸の冒頭において、『天命之謂性』と言われている。いかに人が神に祷ればとて、仏にお頼み申したからとて、無理な真似をしたり不自然な行為をすれば、必ず因果応報はその人の身の上に回り来るもので、到底これを逃れる訳に行くものでない。ここにおいてか自然の大道を歩んで毫も無理な真似をせず、内に省みて疚しからざる者にして、初めて孔夫子の言のごとく、『天生徳於予、桓魋其如予何』との自信を生じ、ここに真正の安心立命を得られることになるのである。
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『論語と算盤』成敗と運命・人事を尽して天命を待て天命は人間がこれを意識しても、はたまた意識しなくても、四季が順当に行われて行くように、百事百物の間に行われてゆくものたるを覚り、これに対する恭、敬、信をもってせねばならぬものだ、と信じさえすれば、「人事を尽して天命を待つ」なる語のうちに含まるる真正の意義も、初めて完全に解し得られるようになるものかと思う。されば実際世に処して行く上において、いかに天を解してゆくべきものかという問題になれば、孔夫子の解しておられた程度にこれを解して、人格ある霊的動物なりともせず、天地と社会との間に行われる因果応報の理法を偶然の出来事なりともせず、これを天命なりとして恭、敬、信の念をもって対するのが、最も穏当なる考え方であろうかと思うのである。
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『論語と算盤』成敗と運命・人事を尽して天命を待てこれが天命であるかあれが天命であるとか言うのは、畢竟人間が自分でそれぞれ勝手に極めることであって、天の毫も関知する所ではないのである。ゆえに人間が天命を畏れて、人力のいかんともする能わざる、ある大なる力の存在を認め、人力を尽くしさえすれば、無理なことでも不自然なことでも、何でも必ず貫徹するものと思わず、恭、敬、信をもって天に対し、明治天皇の教育勅語のうちに、いわゆる古今に通じて謬らず、中外に施して悖らぬ、坦々として長安に通ずる大道をのみ歩み、人力に勝ち誇って無理をしたり、不自然の行為をしたりするのを慎むということは、誠に結構の至りであるが、天あるいは神あるいは仏を人格人体あり、感情に左右せらるるものであるかのごとくに解釈するのは、甚だ間違った観念であろうかと思うのである。
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『論語と算盤』成敗と運命・人事を尽して天命を待て天の果たしていかなるものであろうかということについては、私の関係している帰一協会などの会合でもしばしば議論の起こるところであるが、ある一部の宗教家中には、天を一種の霊的動物であるかのごとくに解釈し、これを人格ある霊体とし、あたかも人間が手足を動かして、あるいは人に幸福を授けたり不幸を下したりするのみならず、祈禱したりお縋り申したりすれば、天はこれに左右せられて、命を二三にせらるるかのごとくに考えておらるる方もある。しかし天はこれらの宗教家方の考えらるるごとく、人格や人体を具えたり、祈願の有無によって、幸不幸の別を人の運命の上につけるごときものではない。天の命は人のこれを知りもせず覚りもせぬ間に、自然に行われてゆくものである。もとより天は手品師のごとき不可思議の奇蹟などを行うものではない。
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『慎思録』巻之五人の吉凶禍福寿夭貧富は、皆天命の素より定むる所にして、人各定分有り。故に短き者は之を長くすべからず。少なき者は之を多くすべからず。且つ天道は善に福し淫に禍す。則ち善なる者は福報有り、不善なる者は禍報有り。是れ必然の理なり。然れども善を為す者も或いは禍有り、不善を為す者も或いは福有り。是れ亦受くる所の厚薄に因りて定分有るなり。夫れ禍福貧富は、皆天の命ずる所にして、定分有ること此くの如し。鬼神焉んぞ諂祈する者に私して、其の常理を変じ、之に福禄を与へ、之に災禍を赦さんや。蓋し鬼神は、自ら是れ聡明正直にして、非礼を享けず。人間の貪官の賄を納れ、容悦して私を行ふ者の比に非ず。胡ぞ非礼の禱請を以て僥倖と為して、福を得禍を免るるの理有らんや。此の理甚だ昭晰なり。明者は固より言を待たずして知るべし。愚者と雖も亦微しく省悟すべきのみ。苟も禍に遭ひて禱請する者、能く己を責め悪を遏むれば、則ち禍を免るるの理有り。天を畏れ善を作せば、則ち福を獲るの理有り。孔子曰く、罪を天に獲れば、禱る所無し、と。又曰く、丘の禱ること久し、と。然らば則ち理に違ひ天に逆ふ者は、正神に禱ると雖も、亦福を得るの理無し。况や淫祠に禱るをや。何の福か之れ有らん。古人曰く、祭るべからざる所にして之を祭る、之を淫祠と謂ふ。淫祠に福無し、と。此の言豈に信ぜざるべけんや。
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