慎思録 / 巻之五
朱子不自棄文。家訓。勤學文。訓蒙詩。竝文集不載之。疑非文公之筆力。恐是後人僞作託朱子乎。大凡古來僞作者多矣。不可盡信。周禮九拜及儀禮禮記家禮本註竝無稱四拜者。只開元禮云。再拜訖又再拜。是亦因再拜重之也。近世丘氏家禮儀節禮樂疏等之書。初有四拜。是明禮也。非古禮。本朝之拜。亦效中華而再拜。江家次第曰。本朝之風。四度拜神。謂之兩段再拜。是亦重再拜也。本朝古禮有拍手。是中華振動拜也。周禮疏亦稱倭禮。
新字:朱子不自棄文。家訓。勤学文。訓蒙詩。並文集不載之。疑非文公之筆力。恐是後人偽作託朱子乎。大凡古来偽作者多矣。不可尽信。周礼九拝及儀礼礼記家礼本註並無称四拝者。只開元礼云。再拝訖又再拝。是亦因再拝重之也。近世丘氏家礼儀節礼楽疏等之書。初有四拝。是明礼也。非古礼。本朝之拝。亦効中華而再拝。江家次第曰。本朝之風。四度拝神。謂之両段再拝。是亦重再拝也。本朝古礼有拍手。是中華振動拝也。周礼疏亦称倭礼。
書き下し
朱子の不自棄文・家訓・勧学文・訓蒙詩は、並びに文集に之を載せず。疑ふらくは文公の筆力に非ず。恐らくは是れ後人偽作して朱子に託するか。大凡古来偽作の者多し。尽くは信ずべからず。周礼の九拝及び儀礼・礼記・家礼の本註に、並びに四拝と称する者無し。只開元礼に云ふ、再拝し訖りて又再拝す、と。是れ亦再拝に因りて之を重ぬるなり。近世丘氏の家礼儀節・礼楽疏等の書に、初めて四拝有り。是れ明の礼なり。古礼に非ず。本朝の拝も、亦中華に効ひて再拝す。江家次第に曰く、本朝の風、四度神を拝す。之を両段再拝と謂ふ、と。是れ亦再拝を重ぬるなり。本朝の古礼に拍手有り。是れ中華の振動拝なり。周礼の疏にも亦倭の礼と称す。
現代語訳
朱子の作とされる「不自棄文」「家訓」「勧学文」「訓蒙詩」は、いずれも朱子の文集に載っていません。朱子の筆力によるものではないのではないかと疑われます。おそらく後の人が偽作して朱子の名に託したのでしょう。およそ昔から偽作は多いので、すべてを信じてはなりません。『周礼』の九拝や『儀礼』『礼記』『家礼』の本注には、どれも四拝というものはありません。ただ『開元礼』に「再拝し終えてまた再拝する」とあります。これも再拝を重ねたものです。近ごろの丘濬の『家礼儀節』や『礼楽疏』などの書に初めて四拝が出てきます。これは明の礼であって古い礼ではありません。わが国の拝礼も中国にならって再拝します。『江家次第』には「わが国の風では四度神を拝む。これを両段再拝という」とあります。これも再拝を重ねたものです。わが国の古い礼には拍手があります。これは中国の振動拝にあたります。『周礼』の疏にもこれを倭の礼と呼んでいます。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
論語・八佾篇子、太廟に入り、事毎に問う。或曰く、『誰か鄒人の子を礼を知ると謂うや、太廟に入りて事毎に問う。』子これを聞きて曰く、『是れ礼なり。』
-
論語・八佾篇子曰く、『夏の礼、吾能く之を言う。杞は徵すに足らず。殷の礼、吾能く之を言う。宋は徵すに足らず。文献足らざる故なり。足らば、則ち吾能く之を徵せん。』
-
論語・学而篇有子曰く、「礼の用は和を貴しと為す。先王の道も斯を美と為す。小大之に由れども、行われざる所有り。和を知りて和すれども、礼を以て之を節せざれば、亦行う可からざるなり。」
-
論語・八佾篇孔子季氏を謂う、「八佾庭に舞わす。是れをも忍ぶ可くんば、孰れをか忍ぶ可からざらん。」
-
論語・八佾篇子曰く、君に事えて礼を尽くせば、人以て諂いと為すなり。
-
論語・八佾篇林放礼の本を問う。子曰く、「大なるかな問いや。礼は其の奢らんよりは、寧ろ倹せよ。喪は其の易めんよりは、寧ろ戚めよ。」