慎思録 / 巻之五
聖人之書爲經。經常也。夫聖人者。法天地之道。盡人道之至。而立至極之準。其道亘古今通華夷。無時無處而不宜。其敎實爲天下萬世之常道。故稱其書爲經。不亦宜乎。浮屠氏亦稱佛書爲經。葢其書在西域。本名修多羅。固無經之名。其書入中國之後。彼徒借聖人之書名。而稱之耳。賢人之書爲傳。葢傳述於聖人之敎也。
新字:聖人之書為経。経常也。夫聖人者。法天地之道。尽人道之至。而立至極之準。其道亘古今通華夷。無時無処而不宜。其教実為天下万世之常道。故称其書為経。不亦宜乎。浮屠氏亦称仏書為経。葢其書在西域。本名修多羅。固無経之名。其書入中国之後。彼徒借聖人之書名。而称之耳。賢人之書為伝。葢伝述於聖人之教也。
書き下し
聖人の書を経と為す。経は常なり。夫れ聖人は、天地の道に法りて、人道の至りを尽くし、至極の準を立つ。其の道、古今に亘り華夷に通じ、時として処として宜しからざる無し。其の教へ実に天下万世の常道たり。故に其の書を称して経と為す。亦宜ならずや。浮屠氏も亦仏書を称して経と為す。蓋し其の書西域に在りては、本修多羅と名づけ、固より経の名無し。其の書中国に入るの後、彼の徒聖人の書の名を借りて之を称するのみ。賢人の書を伝と為す。蓋し聖人の教へを伝述するなり。
現代語訳
聖人の書を経といいます。経とは常という意味です。聖人は天地の道にのっとり、人の道の極みを尽くして、最高の基準を立てました。その道は昔から今まで、中国にも外国にも通じ、いつどこであっても当てはまらないことはありません。その教えはまことに天下万世の不変の道です。だからその書を経と呼ぶのは、もっともなことではありませんか。仏教徒も仏の書を経と呼びます。しかしその書は西域ではもともと修多羅と呼ばれ、経という名はありませんでした。その書が中国に入った後で、仏教徒が聖人の書の名を借りて呼んだにすぎません。賢人の書を伝といいます。聖人の教えを伝え述べたものだからです。
解説
「経は常なり」は古くからの訓詁で、経書が時代や場所を超えて通じる不変の道を記したものだという考えを表します。修多羅はサンスクリットのスートラの音訳で、もとは糸や綱を意味する語です。益軒は、仏典を「経」と呼ぶのは儒書の名を借りたものだと指摘し、儒学の正統を強調します。伝は経を解説し伝える書で、『春秋』に対する『左伝』などがその例です。古典にも原典と注釈の区別があるように、学ぶときは何が基本で何がその解説なのかを見分けることが大切だと教えてくれます。
この章句が説くこと
経伝聖人常道仏教
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