慎思録 / 巻之四
僮僕亦天地之所產。其爲性也。與公卿無異。只卑賤而巳。是皆天地之同所憐恤也。須使之以禮。隨其卑賤之分。而愛敬之。不可任其所辟。而賤惡之。然世俗之役使奴隷也。往往詈之侮之。幾與犬馬無異。更加以叱訶打撻。使人之道。豈可如此乎哉。
新字:僮僕亦天地之所産。其為性也。与公卿無異。只卑賤而巳。是皆天地之同所憐恤也。須使之以礼。随其卑賤之分。而愛敬之。不可任其所辟。而賤悪之。然世俗之役使奴隷也。往往詈之侮之。幾与犬馬無異。更加以叱訶打撻。使人之道。豈可如此乎哉。
書き下し
僮僕も亦た天地の産する所なり。其の性為るや、公卿と異なること無し。只だ卑賤なるのみ。是れ皆天地の同じく憐恤する所なり。須らく之を使ふに礼を以てし、其の卑賤の分に随ひて、之を愛敬すべし。其の辟する所に任せて、之を賤悪すべからず。然るに世俗の奴隷を役使するや、往往にして之を詈り之を侮り、幾ど犬馬と異なること無し。更に加ふるに叱訶打撻を以てす。人を使ふの道、豈に此の如くなるべけんや。
現代語訳
召使いもまた天地が生んだものです。その本性は公卿と変わりがなく、ただ身分が低いだけです。これはみな天地が同じく哀れみ慈しむものです。召使いを使うには礼をもってし、その身分に応じて愛し敬うべきです。自分の偏った気持ちに任せて、卑しみ憎んではなりません。それなのに世間の召使いの使い方は、しばしば罵り侮り、ほとんど犬や馬と変わりがありません。さらに怒鳴りつけ打ちたたきます。人を使う道が、どうしてこのようであってよいでしょうか。
解説
召使いも公卿と同じく天地が生んだ人であり、本性に違いはなく身分が低いだけだと説き、礼をもって愛し敬えと求める条です。身分制の厳しい江戸時代にあって、使用人を罵り打つ世間の風潮を正面から批判する姿勢には、益軒の人間観の温かさが表れています。天地を父母とし万民を同胞とする張載『西銘』の思想が背景にあります。立場や役職の違いは人としての価値の違いではないという認識は、職場で部下や取引先、サービスの担い手に接するときの根本の心構えとして今も生きています。
この章句が説くこと
礼愛敬人を使う仁天地
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