近思録 / 巻11 教学
橫渠先生曰:「恭敬撙節退讓以明禮」、仁之至也、愛道之極也。己不勉明、則人無從倡、道無從弘、教無從成矣。
新字:横渠先生曰:「恭敬撙節退譲以明礼」、仁之至也、愛道之極也。己不勉明、則人無従倡、道無従弘、教無従成矣。
書き下し
横渠先生曰く、「恭敬撙節(そんせつ)退譲して以て礼を明らかにす」とは、仁の至りなり、道を愛するの極みなり。己勉めて明らかにせざれば、則ち人従りて倡うる無く、道従りて弘まる無く、教え従りて成る無し。
現代語訳
張載(横渠先生、北宋の儒者)は言う。『礼記』の「恭しく敬い、控えめに節度を守り、退いて譲ることで礼を明らかにする」とは、仁の極みであり、道を愛することの極致である。自分が努めて礼を明らかにしなければ、人はそれに従って唱え導くことがなく、道はそれによって広まることがなく、教えはそれによって成り立つことがない。
解説
張載は礼を重んじた人で、前の条でも程顥が「子厚礼を以て学者に教うるは最も善し」と評していた。ここでは『礼記』曲礼の一句を取り上げ、恭敬・節度・退譲によって礼を明らかにすることを、仁と道への愛の極みと位置づける。礼は外面の形式ではなく、仁という内面が最も行き届いた姿だという理解である。そのうえで、教える者自身が努めて礼を体現しなければ、人は後に続かず、道は広まらず、教育も成り立たないと言う。教える側の身の処し方がそのまま教材になるという主張である。職場でも、上に立つ者が言葉より先に、節度と譲る姿勢を示せるかどうかで、組織の空気が決まる。
この章句が説くこと
礼仁恭敬退譲率先
関連する章句
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司馬法・天子之義礼を以て固と為し、仁を以て勝と為す。
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論語・八佾篇子曰く、人にして仁ならずんば、礼を如(いかん)せん;人にして仁ならずんば、楽を如せん。
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