慎思録 / 巻之四
氣質者。謂何也。人受天之氣地之質而生焉。其受天之氣。有陰陽淸濁之異。其禀地之質。有剛柔純駁之殊。氣與質。二者謂之性。宋儒不謂之性。而謂氣質何也。葢以非性之本然也。故異名耳。然氣質之外。非有本然之性也。孟子言。性善者。指其氣質本然之理。而謂之性也。
新字:気質者。謂何也。人受天之気地之質而生焉。其受天之気。有陰陽清濁之異。其禀地之質。有剛柔純駁之殊。気与質。二者謂之性。宋儒不謂之性。而謂気質何也。葢以非性之本然也。故異名耳。然気質之外。非有本然之性也。孟子言。性善者。指其気質本然之理。而謂之性也。
書き下し
気質とは、何を謂ふや。人は天の気と地の質とを受けて生ず。其の天の気を受くるに、陰陽清濁の異有り。其の地の質を禀くるに、剛柔純駁の殊有り。気と質と、二者之を性と謂ふ。宋儒之を性と謂はずして、気質と謂ふは何ぞや。蓋し性の本然に非ざるを以てなり。故に名を異にするのみ。然れども気質の外に、本然の性有るに非ざるなり。孟子の性善と言ふ者は、其の気質の本然の理を指して、之を性と謂ふなり。
現代語訳
気質とは何を言うのでしょうか。人は天の気と地の質を受けて生まれます。天の気を受けるには陰陽・清濁の違いがあり、地の質を受けるには剛柔・純駁の違いがあります。気と質の二つを性と言います。宋の儒者がこれを性と言わずに気質と言うのはなぜでしょうか。それは性の本来の姿ではないからで、そのため名を変えただけです。しかし気質の外に本然の性があるのではありません。孟子が性善と言ったのは、その気質の本来の理を指して性と言ったのです。
解説
朱子学の重要概念「気質の性」と「本然の性」について、益軒独自の見解を示した条です。朱子学では、理に由来する純善の本然の性と、気の偏りによる気質の性を区別しますが、益軒は「気質の外に本然の性有るに非ず」と言い、孟子の性善も気質そのものの本来の理を指すと解します。これは理気を分けない益軒の立場を人性論に及ぼしたもので、晩年の『大疑録』の主張にもつながります。人の本性を身体や気性から切り離さずに考える見方は、自分の性分を受け入れつつ善く伸ばすという発想を促します。
この章句が説くこと
性気質本然性善理気
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『慎思録』巻之二董子曰く、性は生の質なり、と。是れ気質の謂ひにして、性を言ふの本義と為すべし。蓋し性は一なり。然れども本然を以て言ふ者有り、気質を以て言ふ者有り。夫子の性相近しと言ふ者は、気質を雑へて之を言ふ。蓋し気禀もて性を言ふ者は、是れ性の本義なり。本然の性は、理の一なるを言ふなり。気質の性は、禀気の万殊有るを言ふなり。気質の本然なる者は理なり。孟子の性善を言ふは、乃ち性の本然を言ふなり。天下古今の性、其の本然なる者は、其の理一なり。故に程子曰く、性は即ち理なり、と。理は是れ性の本然なり。荀楊以下は性の本然を知らず。異論有る所以なり。故に程子直ちに性を指して理と為す。是れ性の本然は即ち理なるを言ふなり。性の善為るを明らかにする所以なり。然りと雖も本然の性も、亦た自ら気質の中に在りて、気質の本然為り。別に一物有りて本然の性と為るに非ず。人豈に二性有らんや。諸を水に譬ふれば、水の清濁純雑有る者は、猶ほ気質のごときなり。其の清き者は、水の本然なり。故に水の本然も、亦た水の気質の中に在り。程子曰く、生之を性と謂ふ。性は即ち気、気は即ち性、生の謂ひなり、と。是れ気質を指して性を言ふ。最も明白と為す。孟子の性善を称するは、惟だ気質の中に於て其の本然を言ふなり。二性有るに非ず。宋季の諸儒は、気質の性と天地の性とを以て、別けて之を言ふ。是れ二性有るなり。通論に非ざるなり。
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『慎思録』巻之六性は一なり。本然を以て言ふ者有り、禀受する所を以て言ふ者有り。本然を以て言ふ者は、易の所謂一陰一陽之を道と謂ふ、之を継ぐ者は善なり、之を成す者は性なり。中庸に曰く、天の命之を性と謂ひ、性に率ふ之を道と謂ふ。孟子の性善を言ふ。是れ皆本然を言ふなり。蓋し天地の理は、本自ら善なり。是を以て人の禀性は、其の本善ならざる有ること無し。張子之を天地の性と謂ふ。是れ理を以て言ふ。故に程子曰く、性は即ち理なりと。蓋し本然の性は天命の在る所なり。禀受する所を以て言ふ者有り。人生の初め、陰陽の気を禀くるに、清濁厚薄純駁偏正の同じからざる有り。人の禀受する所、偶然として各異なること此くの如きなり。夫子曰く、性相近しと。孟子曰く、食色は性なりと。又曰く、形色は天性なりとは、此れ皆禀受する所を以て言ふ。故に董子曰く、性は生の質なりと。是れ程張二子の所謂気質の性是れなり。其の禀くる所万殊なり。蓋し性の字は心に従ひ生に従ふ。故に生質を以て言ふ者は、便ち性の字の正訓なり。是れ性の本義なり。性を以て理と為す者は、其の本然を言ふのみ。性の字の正訓に非ざるなり。羅整菴、理一分殊を以て性を説きて、天地気質を分かたず。先正の成説と稍異なると雖も、発明する所有りと謂ふべし。蓋し本然なる者は理一なり。天下の人の禀くる所皆一なり。気質なる者は分殊なり。衆人の禀くる所、各同じからず。羅氏の此の説、後に出づる者は巧なりと謂ふべし。天下の事、漸を以て開くる者、此の類なり。
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『慎思録』巻之一宋儒は気質の性と天地の性とを以て、分拆して之を言ふ。此れ学者の暁り易きが為なり。其の実人に二性無し。気質の本然、即ち是れ天地の性のみ。性とは本是れ気質の謂なり。朱子曰く、心を公にせざるの人は、書を読むこと能はずと。信なるかな斯の言や。蓋し心を公にせざるの人は、其の心偏邪多し。力学読書すと雖も、其の見る所平正ならず、常に一己の私に徇ひて、之を主張す。是を以て正理を得ること能はず、見る所差多し。書を読むこと能はざる所以なり。
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伝習録・答周道通書来書に云う、「程子の『人生まれて静なる以上は説くを容れず。才かに性を説かば、便ち已に是れ性に非ず』を引く有り。何の故に説くを容れざるか。何の故に是れ性に非ざるか。晦庵、答えて云う、『説くを容れざる者は、未だ性の言うべき有らず。是れ性に非ざる者は、已に気質の雑わり無き能わざるなり』と。二先生の言、皆な未だ暁る能わず。毎に書を看て此に至れば、輒ち一惑と為る。請い問う」と。「生を之れ性と謂う」の「生」の字は即ち是れ「気」の字なり。猶お「気は即ち是れ性なり」と言うがごときなり。気は即ち是れ性なれば、「人生まれて静なる以上は説くを容れず」。才かに「気は即ち是れ性」と説かば、即ち已に一辺に落在す。是れ性の本原に非ざるなり。孟子の「性善」は、是れ本原の上より説く。然れども性善の端は、須らく気の上に在りて始めて見得べし。若し気無くんば、亦た見るべき無し。惻隠・羞悪・辞譲・是非は即ち是れ気なり。程子謂う、「性を論じて気を論ぜざれば、備わらず。気を論じて性を論ぜざれば、明らかならず」と。亦た是れ学者の各々一辺を認むるが為に、只だ此くの如く説くを得たり。若し自性を見得て明白なる時は、気は即ち是れ性、性は即ち是れ気なり。原と性・気の分かつべき無きなり。
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『呻吟語』内篇・談道・善は性なり、性は未だ必ずしも善ならず善は性なり、性は未だ必ずしも善ならず。秤錘は鐵なるも、鐵は秤錘ならず。或るひと曰く、「孟子性善を道ふは、與に非ざるか」と。曰く、「余の言ふ所は、孟子の言なり。孟子は耳目口鼻四肢の欲を以て性と為す。此の性善なるか否か」と。天に自ら兩種の天有り。理道の天有り、氣數の天有り。故に之を人に賦するに、義理の性有り、氣質の性有り。二天は皆な太極より出づ。理道の天は是れ先天、未だ陰陽五行を著けざる以前、純善にして惡無し。氣數の天は是れ後天、陰陽五行に落つるの後、善有り惡有り。孟子の性善を道ふは、只だ個の德性を言ふのみ。
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『呻吟語』内篇・性命・義理の性は善有りて惡無し虞廷は專ら性善を言はず、曰く「人心惟れ危く、道心惟れ微なり」と。或ひと曰く「人心は性に非ず」と。曰く、「性に非ずとするも可なり。亦た是れ陰陽五行の化生ならずや」と。六經も專ら性善を言はず、曰く「惟れ皇上帝、衷を下民に降し、厥に恒性有り」と。又曰く「天は蒸民を生じ欲有り、主無ければ乃ち亂る」と。孔子も專ら性善を言はず、曰く「之を繼ぐ者は善なり、之を成す者は性なり」と。又曰く「性は相近きなり」「惟だ上智と下愚とは移らず」と。才めて相近しと說けば、便ち是れ一個ならず。相遠きは相近きより脚を起こす。子思も專ら性善を言はず、曰く「道を修むる、之を教と謂ふ」と。性皆善ならば、道胡ぞ修む可けんや。孟子も專ら性善を言はず、曰く「聲色・臭味・安佚は性なり」と。或ひと曰く「這の性は是れ好性なり」と。曰く、「好性ならば如何ぞ君子謂はざる」と。又曰く「心を動かし性を忍ぶ」と。善性豈に忍ぶ可けんや。犬の性、牛の性、豈に性に非ずや。犬・牛の性も、亦た仁・義・禮・智・信の性ならんや。細かに之を推さば、犬の性は猶ほ犬の性のごとく、牛の性は猶ほ牛の性のごときか。周茂叔も專ら性善を言はず、曰く「五性相感じて善惡分かれ、萬事出づ」と。又曰く「幾は善惡なり」と。程伯淳も專ら性善を言はず、曰く「惡も亦た之を性と謂はざる可からず」と。大抵性善を言ふ者は、義理を主として氣質を言はず。蓋し孟子の諸家を折くに自りて始まる。後來の諸儒遂に此の說を主として敢へて異同せず、是れ未だ天地萬物の情を觀ざるなり。義理は固より是れ天賦なり、氣質も亦た豈に人の為ならんや。眾人を論ずる無かれ、即ち堯舜禹湯文武周孔も、豈に一樣の氣質ならんや。愚僭かに為に之を說きて曰く、「義理の性は、善有りて惡無し。氣質の性は、善有り惡有り。氣質も亦た天の人に命じて生と俱に生ずる者なり、之を性と謂はざる可けんや。程子云ふ、『性を論じて氣を論ぜざれば備はらず、氣を論じて性を論ぜざれば明らかならず』と。性と氣とを分かちて兩項と作さば、便ち透徹せず。張子は善を以て天地の性と為し、清濁純駁を氣質の性と為す、支離なるを覺ゆるに似たり。其の實、天地は只だ是れ一個の氣、理は氣の中に在り、萬物に賦して、方めて性を以て言ふ。故に性の字は生に從ひ心に從ふ、生有るの心を言ふなり。設使ひ氣質無くんば、只だ是れ一個の德性のみ、人人都て是れ生知の聖人ならん。千古の聖賢の千言萬語、教化刑名は都て是れ多かりし底なり、何ぞ苦しむ所ありて此くのごとくならんや。這れ都て是れ氣質を降伏し、德性を扶持するなり。案を此に立て、千百世の後の之を駁するを俟つ」と。