慎思録 / 巻之四
言者。心之聲也。發乎外而可聞矣。心者。身之主也。在乎中而不可見。故接人時。人唯聞吾言。而不見吾心。然則發乎外者。只言而巳。言豈可不愼乎。
新字:言者。心之声也。発乎外而可聞矣。心者。身之主也。在乎中而不可見。故接人時。人唯聞吾言。而不見吾心。然則発乎外者。只言而巳。言豈可不慎乎。
書き下し
言は心の声なり。外に発して聞くべし。心は身の主なり。中に在りて見るべからず。故に人に接する時、人は唯だ吾が言を聞きて、吾が心を見ず。然らば則ち外に発する者は、只だ言のみ。言豈に慎まざるべけんや。
現代語訳
言葉は心の声です。外に発せられて聞くことができます。心は身の主です。内にあって見ることができません。ですから人に接するとき、人はただ私の言葉を聞くだけで、私の心を見ることはありません。そうであれば、外に現れるものはただ言葉だけです。言葉をどうして慎まずにいられましょうか。
解説
言葉は心の声であり、人は私たちの心を直接見ることはできず、言葉を通してしか知ることができない、だから言葉を慎めと説く短い条です。「言は心の声なり」は前漢の揚雄『法言』問神篇の言葉に基づきます。どれほど善意があっても、口から出た言葉が乱暴なら、相手には乱暴な心としてしか伝わりません。とくに対面が減り、文字だけでやり取りすることの多い現代では、言葉の選び方がそのまま人柄として受け取られることを、改めて意識させてくれます。
この章句が説くこと
言葉慎心言行信
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