慎思録 / 巻之四
知而後行者。非欲知至而后行之也。須先知其端緖。則行之也。葢非先知其端緖。則不能行之。然知其端緖者。粗知其當然之則也。葢如事親之道。溫凊定省。出告歸面之類。是知其端緖也。知其端緖者。知當然之則也。講之不久。而可知其大略而已。知之則須要速行之。是知行並進也。至行之久。則知之深。葢經歷而知之也。是可爲眞知。故初學者。非先知之。則不能行。既知。則在時習而行之。不如此。則知徒進而行不及。非力行。則不能眞知。故下學之功。雖以知行並進爲勤。須以力行爲重。書曰。非知之艱。行之惟難。人欲知京師。須躬到京師。而後爲眞知京師也。苟徒觀其圖書而休者。則不可爲眞知京師。故行而後知者。此可爲眞知也。
新字:知而後行者。非欲知至而后行之也。須先知其端緒。則行之也。葢非先知其端緒。則不能行之。然知其端緒者。粗知其当然之則也。葢如事親之道。温凊定省。出告帰面之類。是知其端緒也。知其端緒者。知当然之則也。講之不久。而可知其大略而已。知之則須要速行之。是知行並進也。至行之久。則知之深。葢経歴而知之也。是可為真知。故初学者。非先知之。則不能行。既知。則在時習而行之。不如此。則知徒進而行不及。非力行。則不能真知。故下学之功。雖以知行並進為勤。須以力行為重。書曰。非知之艱。行之惟難。人欲知京師。須躬到京師。而後為真知京師也。苟徒観其図書而休者。則不可為真知京師。故行而後知者。此可為真知也。
書き下し
知りて而る後に行ふとは、知至りて而る后に之を行はんと欲するに非ざるなり。須らく先づ其の端緒を知らば、則ち之を行ふべし。蓋し先づ其の端緒を知るに非ざれば、則ち之を行ふこと能はず。然れども其の端緒を知るとは、粗其の当然の則を知るなり。蓋し事親の道の如き、温凊定省、出でては告げ帰りては面するの類、是れ其の端緒を知るなり。其の端緒を知るとは、当然の則を知るなり。之を講ずること久しからずして、其の大略を知るべきのみ。之を知らば則ち須らく速やかに之を行ふべし。是れ知行並び進むなり。之を行ふこと久しきに至れば、則ち之を知ること深し。蓋し経歴して之を知るなり。是れ真知と為すべし。故に初学の者は、先づ之を知るに非ざれば、則ち行ふこと能はず。既に知れば、則ち時に習ひて之を行ふに在り。此の如くならざれば、則ち知徒らに進みて行ひ及ばず。力行に非ざれば、則ち真に知ること能はず。故に下学の功は、知行並び進むを以て勤むと雖も、須らく力行を以て重しと為すべし。書に曰く、之を知るの艱きに非ず、之を行ふこと惟れ難し、と。人京師を知らんと欲せば、須らく躬ら京師に到りて、而る後に真に京師を知ると為すべし。苟も徒らに其の図書を観て休む者は、則ち真に京師を知ると為すべからず。故に行ひて而る後に知る者は、此れ真知と為すべきなり。
現代語訳
知ってから行うというのは、知が完全になってから行おうとすることではありません。まずその糸口を知ったら行うべきです。まず糸口を知らなければ行うことはできません。しかし糸口を知るとは、おおよそそのあるべき法則を知ることです。親に仕える道で言えば、冬は暖かく夏は涼しくし、夜は寝床を整え朝は安否をうかがい、出かけるときは告げ、帰れば顔を見せるといったことが、糸口を知ることです。糸口を知るとは、あるべき法則を知ることです。長く講じなくても、その大略は知ることができます。知ったらすぐに行うべきです。これが知と行を並べて進めることです。行うことが久しくなれば、知ることが深くなります。経験を通して知るのです。これを真の知とすべきです。ですから初学者は、まず知らなければ行うことはできませんが、知ったら折にふれて習い行うことにあります。そうしなければ、知ばかりが進んで行いが追いつきません。力を尽くして行わなければ、本当に知ることはできません。ですから身近なところから学ぶ努力は、知と行を並べて進めることに励むとはいえ、力行を重んじなければなりません。『書経』に「知ることが難しいのではない、行うことこそ難しい」とあります。人が都を知ろうとするなら、自ら都に行ってこそ、本当に都を知ったことになります。ただ地図や書物を見ただけでやめる者は、本当に都を知ったとは言えません。ですから行ってから知るものこそ、真の知とすべきです。
解説
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