弁道 / 第十六則
後儒之說。天理人欲。致知力行。存養省察。粲然明備矣。以我觀於孔門諸子。蓋有未嘗知其說者焉。是何其儱侗也。孔子之敎蓋亦有未嘗及其詳者焉。是何其鹵莽也。然先王孔子以彼而不以此者。敎之道本不可若是也。後世廼信思孟程朱。過於先王孔子。何哉。蓋先王之敎。以物不以理。敎以物者。必有事事焉。敎以理者。言語詳焉。物者衆理所聚也。而必從事焉者久之。乃心實知之。何假言也。言所盡者。僅僅乎理之一端耳。且身不從事焉。而能瞭然於立談。豈能深知之哉。釋氏猶謂如飮水冷煖自知。曾謂先王不及釋氏乎。故不先之以事而能有成焉者。天下鮮矣。不啻先王之道。凡百技藝皆爾。
新字:後儒之説。天理人欲。致知力行。存養省察。粲然明備矣。以我観於孔門諸子。蓋有未嘗知其説者焉。是何其儱侗也。孔子之教蓋亦有未嘗及其詳者焉。是何其鹵莽也。然先王孔子以彼而不以此者。教之道本不可若是也。後世廼信思孟程朱。過於先王孔子。何哉。蓋先王之教。以物不以理。教以物者。必有事事焉。教以理者。言語詳焉。物者衆理所聚也。而必従事焉者久之。乃心実知之。何仮言也。言所尽者。僅僅乎理之一端耳。且身不従事焉。而能瞭然於立談。豈能深知之哉。釈氏猶謂如飲水冷煖自知。曽謂先王不及釈氏乎。故不先之以事而能有成焉者。天下鮮矣。不啻先王之道。凡百技芸皆爾。
書き下し
後儒の説、天理人欲、致知力行、存養省察、粲然として明備す。我を以て孔門の諸子を観るに、蓋し未だ嘗て其の説を知らざる者有り。是れ何ぞ其れ儱侗なるや。孔子の教へも蓋し亦た未だ嘗て其の詳に及ばざる者有り。是れ何ぞ其れ鹵莽なるや。然れども先王孔子の彼を以てして此を以てせざるは、教ふるの道本と是くの若くすべからざればなり。後世廼ち思孟程朱を信ずること、先王孔子より過ぐるは何ぞや。蓋し先王の教へは、物を以てして理を以てせず。教ふるに物を以てする者は、必ず事を事とする有り。教ふるに理を以てする者は、言語詳らかなり。物は衆理の聚まる所なり。而して必ず事に従ふ者之を久しうすれば、乃ち心実に之を知る。何ぞ言を仮らんや。言の尽くす所は、僅僅乎として理の一端のみ。且つ身事に従はずして、能く立談に瞭然たるも、豈に能く深く之を知らんや。釈氏すら猶ほ水を飲みて冷煖自ら知るが如しと謂ふ。曾ち先王は釈氏に及ばずと謂ふか。故に之に先んずるに事を以てせずして能く成る有る者は、天下に鮮し。啻に先王の道のみならず、凡百の技芸皆爾り。
現代語訳
後世の儒者の説は、天理と人欲、知を極めることと力行、存養と省察と、はっきりと明らかに備わっている。私の目で孔子の門の弟子たちを見ると、その説を一度も知らなかった者もいたようだ。なんと大まかなことか。孔子の教えも、その詳しいところにまで及ばなかったものがあったようだ。なんと粗雑なことか。それでも先王・孔子があちらのやり方を取ってこちらのやり方を取らなかったのは、教える道がもともとこうであってはならないからである。後世の人が子思・孟子・程朱を先王・孔子以上に信じるのはなぜだろうか。思うに先王の教えは「物」によって教え、「理」によって教えない。物によって教える者には、必ず取り組むべき事がある。理によって教える者は、言葉が詳しい。物とは多くの理が集まるところである。そして必ずその事に長く取り組んでいれば、心が本当にそれを知るようになる。どうして言葉を借りる必要があろうか。言葉で尽くせるのは、ほんのわずか理の一端にすぎない。しかも自分の身でその事に取り組まずに、立ち話のうちにはっきり分かったつもりになっても、どうして深く知ることができようか。仏教でさえ「水を飲めば冷たいか温かいかは自分で分かる」と言う。先王が仏教に及ばないとでも言うのか。だから、まず事に取り組むことから始めずに成し遂げられる者は、天下にほとんどいない。先王の道だけでなく、あらゆる技芸がみなそうである。
解説
この章句が説くこと
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『慎思録』巻之五孔孟は雅に礼を言ひ、其の理を言ふ者は罕なり。易に曰く、理を究め性を尽くす、と。又曰く、易簡にして天下の理得たり、と。孟子曰く、理義は心を悦ばしむ、と。仲尼燕居に子曰く、礼は理なり、と。楽記に天理を滅すと言ふ等、止数語のみ。語孟の中、礼の字の理を指して言ふ者多し。然らば則ち何為れぞ直ちに理を言はずして礼を言ふや。朱子曰く、礼は即ち理なり。但之を理と謂へば、形迹の言ふべき無し。礼は即ち品節文章の見るべき有り、と。此に由りて之を観れば、聖賢の理を言はずして礼を言ふ者は、以有るなり。
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『酔古堂剣掃』集醒・山嶽に登る者にして崎嶇を知る江湖を涉る者にして、然る後に波濤の洶湧を知る。 山嶽に登る者にして、然る後に蹊徑の崎嶇を知る。
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『都鄙問答』卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段曰く、汝は理を直ちに命と云ふ、是大いに誤れり。理は玉の理なり。又総て物の理なれば、通るまでのことにて死物なり。命は、書経にも、惟れ命は常に于てせずと云へり。天の降せる命なれば、活物の性なり。斯くのごとく別なり。然るを、死活を以て一致とするは如何なることぞ。
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『弁名』理氣人欲夫れ理は事物皆之れ有り。故に理は繊細なる者なり。宋儒の意、其の細を合すれば以て其の大を成すべしと謂ふ。豈に其れ然らんや。銖銖にして之を求むれば、鈞に至りて差ふ。寸寸にして之を求むれば、丈に至りて差ふ。何となれば、凡人の見る所は小にして、聖人の見る所は大なり。見る所大なれば、則ち小なる者遺れず。聖人の及ぶべからざる所以なり。人苟も聖人の教に循ひて其の大なる者を得れば、則ち小なる者自ら失はず。其れ或いは之を失ふと雖も、亦た大害無し。何となれば、其の大なる者を失はざるが故なり。大なる者は何ぞ。礼と義と是れなり。聖人の極を立つる所なり。宋儒の理を尚ぶ、其の究は聖人を師とせずして自ら用ふるに帰す。是れ其の失する所以なり。
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『慎思録』巻之二大学或問に曰く、天下の物は、必ず各々其の然る所以の故と、其の当に然るべき所の則と有り。所謂理なり、と。愚謂ふ、当に然るべき所の者は、理の見易き者なり。所謂粗なり。然る所以の者は、理の見難き者なり。所謂精なり。夫れ理は一なり。其の表裏精粗有るを以て、二者の別有り。
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『慎思録』巻之六雷の地に堕ちて形を成す者は、何ぞや。蓋し天に在りては象を成し、地に在りては形を成す。雷は是れ水火の激発する所、其の気大いに聚まり甚だ盛んにして、一時地に落つ。暴かに消散すること能はず、忽ち凝結して形を成す者なり。其の形を成すや、或は斧槌の形と為り、或は鳥獣の形と為る。蓋し既に地に落ちて形を成せば、則ち地に在るの品物と相類す。亦自然の理なり。久しければ則ち尽く消えて余り無し。怪しと為すべからざるなり。
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