慎思録 / 巻之四
明儒博識聰明而才俊者。往徃宗師陽明。尊信之如神明。中庸云。百世以俟聖人而不惑。知人也。如陽明之學。果俟聖人而不惑者哉。尊信之者。安可爲知人耶。嗟乎陽明。文章功業超絕于一世。可謂天下之英才也。如其學術。粗謬與孔孟之敎不同。不免自葱嶺來。見其所述作。而可知也已。然雖見其所述作。猶未悟其爲禪佛之徒。是學術之蔽惑不幾乎無是非之心耶。
新字:明儒博識聰明而才俊者。往往宗師陽明。尊信之如神明。中庸云。百世以俟聖人而不惑。知人也。如陽明之学。果俟聖人而不惑者哉。尊信之者。安可為知人耶。嗟乎陽明。文章功業超絶于一世。可謂天下之英才也。如其学術。粗謬与孔孟之教不同。不免自葱嶺来。見其所述作。而可知也已。然雖見其所述作。猶未悟其為禅仏之徒。是学術之蔽惑不幾乎無是非之心耶。
書き下し
明儒の博識聡明にして才俊なる者、往往にして陽明を宗師とし、之を尊信すること神明の如し。中庸に云ふ、百世以て聖人を俟ちて惑はざるは、人を知るなり、と。陽明の学の如き、果して聖人を俟ちて惑はざる者か。之を尊信する者、安んぞ人を知ると為すべけんや。嗟乎陽明は、文章功業一世に超絶し、天下の英才と謂ふべし。其の学術の如きは、粗謬にして孔孟の教へと同じからず。葱嶺より来たるを免れず。其の述作する所を見て、知るべきなり。然れども其の述作する所を見ると雖も、猶ほ未だ其の禅仏の徒為ることを悟らず。是れ学術の蔽惑、是非の心無きに幾からずや。
現代語訳
明の儒者で博識聡明で才能の優れた者たちは、しばしば王陽明を師と仰ぎ、神のように尊び信じています。『中庸』に「百世の後に聖人を待っても惑わないのは、人を知っているからである」とあります。陽明の学問は、はたして聖人を待っても惑わないものでしょうか。これを尊び信じる者が、どうして人を知っていると言えましょう。ああ、陽明は文章も功業も一世に抜きん出ており、天下の英才と言うべきです。しかしその学術は粗く誤っていて、孔孟の教えと同じではありません。葱嶺の向こう、つまり仏教から来たものであることを免れません。その著作を見ればわかります。それなのに、その著作を見てもなお、陽明が禅仏の徒であることに気づかないのです。これは学術に目がくらんで、是非を判断する心がないのに近いのではないでしょうか。
解説
この章句が説くこと
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『慎思録』巻之六歴世儒臣多きこと、明朝に若くは無し。献徴録の載する所を看て、知るべきのみ。其の衆多の中、学術純正なる者は極めて鮮く、異学に陥溺する者、滔滔乎として天下皆是れなり。其の余弊流れて胡清に至るも、未だ止息せず。恐らくは外国に伝はりて遠く及ばん。此の弊は陳白沙・王陽明を以て作俑と為すべし。陽明最も称首為り。天下後世の蒼生を誤る者は、此の人に在り。何ぞ啻だ晋人の清談を尚ぶの弊のみならんや。然るに明清の諸儒、才俊にして略学識有る者も、亦迷眩して、之を尊びて宗師と為し、神明の如くする者は、何ぞや。此れ古人の王衍・何晏の罪を以て桀紂より浮ると為す所以なり。蓋し学術の偏異迷溺は、英俊の人と雖も免るること能はず。古より然り。怪しむに足らず。学者の恐れ省みるべき所以なり。東坡の六一居士集序に曰く、邪説の人を移すや、豪傑の士と雖も、免れざる者有りと。誠なるかな此の言や。
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『慎思録』巻之四近世の書生、自ら以て道学と為す者有り。然れども往往にして訓詁の学、章句を治むるを以て勤めと為し、道を知るを以て志と為さず。慎思黙識すること能はず。是を以て経義を講習すること年久しと雖も、然り而して自得の効無く、道に通ずること能はず。儒者の学と為すべからざるなり。
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『慎思録』巻之五軽々しく先儒を議するは、固より是れ僭率にして、学者の当に戒むべき所なり。妄りに古人を信ずるも、亦是れ明らかならず、学者の当に審らかにすべき所なり。况や阿諛曲従して附会する者に於てをや。近世の学者、二者の蔽惑有るを免れず。大学或問に曰く、世蓋し誤りを承け訛を踵ぎ、心に非を知りて、故らに穿鑿附会を為し、以て其の説の必ず通ぜんことを求むる者有り。其の聖言を侮りて後学を誤ること益甚だし。亦何ぞ取りて以て法と為すに足らんや、と。朱子の言此くの如し。然らば則ち信ずべき者を信じ、疑ふべき者を疑ふは、先儒の言に従はずと雖も、亦先儒の心なり。君子の学は、当に斯くの如くなるべし。夫れ軽々しく先輩を議する者は固より非なり。而して妄りに其の好む所に阿る者も亦非なり。古を信ずる者は固より是なり。而して古に泥まざる者も亦是なり。
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『慎思録』巻之五大抵後人の朱子を論ずる、其の失二有り。其の一は、朱子を以て信ずるに足らずと為して貶議す。其の二は、朱子を以て聖人と為して加ふべからずとす。朱子を以て信ずるに足らずと為す者は、固より是れ寃枉なり。朱子を以て聖人と為す者も、亦是れ其の好む所に阿るなり。此の二者は、朱子を知らざるの過ちなり。
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『慎思録』巻之五中夏の古人の博洽才量は、本邦の人を以て之に比校すれば、卓乎として其れ及ぶべからず。是れ今古華夷の稟性と学習との相如かざるなり。苟も其の識見の精粗と偏正とを論ずれば、則ち中華古来宏才の士と雖も、亦復往往議すべき者有り。其の著す所を看て知るべきのみ。所謂其の詩を誦し其の書を読みて、其の人を知らずして、可ならんや。然らば則ち古人の説と雖も、其の疑ふべき者を疑ひ、其の信ずべき者を信ずるも、亦是れ善く学ぶ者の為す所なり。若し古人皆是なりと謂ひて、揀択去取する所無く、一切曲従する者は、明達と為すべからざるなり。故に遜志斎曰く、学は疑ふに匪ざれば明らかならず。而して疑ふこと鑿を悪む。疑ひて能く辨ず、斯れを善く学ぶと為す。古皆然りと以ふこと勿かれ、と。愚謂ふ、此の言旨きかな。明達の君子、以て如何と為すや。然れども後生の妄りに先正を議する者も、亦当に戒むべき所なり。
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『慎思録』巻之四四書注、千百年眼を種うる者有るも、観るに足らず。復た張燧の千百年眼有り、四書注と同じからず。其の中に太王未だ嘗て商を剪らずの説有り。謂ふこころは、説文に詩を引きて実始戩商に作る。解に云ふ、戩は福なり、と。蓋し太王始めて福を商より受けて、其の国を大にすることを謂ふ、と。其の弁証分明なり。又左氏は左丘明に非ずの説有り、亦た考証明白なり。且つ李密の陳情表に少くして偽朝に仕ふの句有り。責備する者は、其の孝に篤くして忠を妨ぐと謂ふ。嘗て仏書に此の文を引くを見るに、偽朝を荒朝と為す。蓋し密の初文なり。偽朝の字は、蓋し晋之を改めて以て史に入るるのみ。張燧の事を論ずる、其の取るべき者此の如し。然れども朱陸の異同を論じ、且つ王陽明を宗師とするが如き、其の学術の正しからざるを見るべきなり。唯だ前に挙ぐる所の三証の如きは、其の人を以て其の言を廃せずして可なり。