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慎思録 / 巻之四

講學尙精深。葢初學之所知。俗學之所記。止其皮膚而已。君子之所知。自皮而到肉。自肉而到骨。自骨而到髓。其間不知隔幾重之界限。然則百之千之之功。不可闕。此所謂深造之以道。欲其自得之也。必如此。而後可漸到精微之處。其用力彌精。即其造道彌深。苟不能如此。一視而即止者。膚淺鹵莽之學。未能到深奥之地。何可以自得哉。苟學而不能自得者。即是口耳之學。訓詁記誦之習而已。然自得者。眞積力久。自然而得之於己也。非著意安排。躐其等而急迫求之者之可得也。所謂渙然氷釋。怡然理順。久自得之。非偶然也。

新字:講学尚精深。葢初学之所知。俗学之所記。止其皮膚而已。君子之所知。自皮而到肉。自肉而到骨。自骨而到髄。其間不知隔幾重之界限。然則百之千之之功。不可闕。此所謂深造之以道。欲其自得之也。必如此。而後可漸到精微之処。其用力弥精。即其造道弥深。苟不能如此。一視而即止者。膚浅鹵莽之学。未能到深奥之地。何可以自得哉。苟学而不能自得者。即是口耳之学。訓詁記誦之習而已。然自得者。真積力久。自然而得之於己也。非著意安排。躐其等而急迫求之者之可得也。所謂渙然氷釈。怡然理順。久自得之。非偶然也。

書き下し

講学は精深を尚ぶ。蓋し初学の知る所、俗学の記す所は、其の皮膚に止まるのみ。君子の知る所は、皮よりして肉に到り、肉よりして骨に到り、骨よりして髄に到る。其の間幾重の界限を隔つるかを知らず。然らば則ち百之千之の功、闕くべからず。此れ所謂深く之に造るに道を以てするは、其の之を自得せんことを欲するなり。必ず此の如くして、而る後に漸く精微の処に到るべし。其の力を用ふること彌精しければ、即ち其の道に造ること彌深し。苟も此の如くすること能はず、一視して即ち止む者は、膚浅鹵莽の学にして、未だ深奥の地に到ること能はず。何ぞ以て自得すべけんや。苟も学びて自得すること能はざる者は、即ち是れ口耳の学、訓詁記誦の習ひのみ。然れども自得なる者は、真積力久しくして、自然にして之を己に得るなり。意を著けて安排し、其の等を躐えて急迫に之を求むる者の得べきに非ざるなり。所謂渙然として氷釈し、怡然として理順ひ、久しくして自ら之を得るは、偶然に非ざるなり。

現代語訳

学問を講じるには精しく深いことを尊びます。初学者が知ること、俗な学問が覚えることは、皮膚にとどまるだけです。君子の知ることは、皮から肉へ、肉から骨へ、骨から髄へと至ります。その間にいくつの境目を隔てているかわかりません。そうであれば、人が一度でできることを百度、十度でできることを千度行う努力を欠かしてはなりません。これが『孟子』に言う「深く道によって至るのは、自ら会得しようと望むからである」ということです。必ずこのようにして、その後にようやく精しく微妙なところに至ることができます。力を用いることがいよいよ精しければ、道に至ることもいよいよ深くなります。もしそうできず、一度見てすぐやめる者は、浅く粗雑な学問で、深い奥にまで至ることはできません。どうして自ら会得できましょう。学んでも自ら会得できない者は、口と耳だけの学問、注釈と暗記の習いにすぎません。しかし自ら会得するとは、誠実に積み重ね力を尽くすことが久しくて、自然に自分のものとして得ることです。意図して取り繕い、段階を飛び越えて急いで求める者が得られるものではありません。いわゆる「氷がすっかり解けるように疑いが晴れ、心地よく理にかない、久しくして自ら得る」のは、偶然ではないのです。

解説

学問を皮・肉・骨・髄と深まる段階にたとえ、表面の知識で満足せず骨髄まで到達せよと説く条です。『中庸』第二十章の「人一たびして之を能くすれば己之を百たびす」、『孟子』離婁下の「深く之に造るに道を以てするは、其の之を自得せんことを欲するなり」、『荀子』勧学篇の「真積力久しければ則ち入る」、杜預『春秋左氏伝序』の「渙然として氷釈し、怡然として理順ふ」を重ねています。近道を求めず、誠実な積み重ねの先に自然と身につく理解こそ本物だという教えは、あらゆる技能の習得に通じます。

この章句が説くこと

学問自得深造積習読書

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