慎思録 / 巻之四
遊觀山水之時。有良朋。則同遊可也。若無良朋。則獨遊亦可也。與俗人同遊。則大妨佳興。不要强求同遊。如以獨遊不爲無聊。則不待求友。而自足矣。古人曰。秋月不可與俗士賞。此言還是。葢世間雖相識者多。如風雅之士樂山水閑淡者。甚少。况樂道義之士乎。夫不知吟風弄月之樂者。固爲俗流。嗜於風月之樂。而不好道義者。最爲俗士。
新字:遊観山水之時。有良朋。則同遊可也。若無良朋。則独遊亦可也。与俗人同遊。則大妨佳興。不要強求同遊。如以独遊不為無聊。則不待求友。而自足矣。古人曰。秋月不可与俗士賞。此言還是。葢世間雖相識者多。如風雅之士楽山水閑淡者。甚少。況楽道義之士乎。夫不知吟風弄月之楽者。固為俗流。嗜於風月之楽。而不好道義者。最為俗士。
書き下し
山水に遊観するの時、良朋有らば、則ち同じく遊びて可なり。若し良朋無くんば、則ち独り遊ぶも亦た可なり。俗人と同じく遊べば、則ち大いに佳興を妨ぐ。強ひて同遊を求むることを要せず。如し独遊を以て無聊と為さざれば、則ち友を求むるを待たずして自ら足る。古人曰く、秋月は俗士と賞すべからず、と。此の言還つて是なり。蓋し世間に相識る者多しと雖も、風雅の士の山水の閑淡を楽しむ者の如きは、甚だ少なし。況や道義を楽しむの士をや。夫れ吟風弄月の楽しみを知らざる者は、固より俗流為り。風月の楽しみを嗜みて、道義を好まざる者は、最も俗士為り。
現代語訳
山水に遊んで眺めるとき、良い友がいれば一緒に遊ぶのがよく、良い友がいなければ独りで遊ぶのもまたよいのです。俗人と一緒に遊べば、せっかくの興趣が大いに妨げられます。無理に連れを求める必要はありません。独りで遊ぶことを退屈と思わなければ、友を求めなくても自分で満ち足ります。昔の人は「秋の月は俗人と一緒に賞してはいけない」と言いましたが、この言葉はまことにもっともです。世の中に知り合いは多くても、風雅の人で山水の静かな趣を楽しむ人はたいへん少ないのです。まして道義を楽しむ人はなおさらです。風に吟じ月をめでる楽しみを知らない者は、もとより俗な連中です。しかし風月の楽しみをたしなみながら道義を好まない者こそ、最も俗な人です。
解説
この章句が説くこと
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