慎思録 / 巻之四
君子之道。親親仁民愛物者。有義焉。葢親與民物。三者。皆天之所生。而所愛育也。是以吾事天之道。當厚天之所愛也。吾親之仁之愛之者。乃所以順天心而事之也。此爲一義。且三者。本是天地之所生。與吾一氣同體。所謂民吾同胞。物吾與也。是不可不厚。故吾親之仁之愛之者。乃所以厚吾氣類也。此爲一義。然雖有二義。要之皆是事天之道也。人子事親之道。亦猶此。葢爲人子者。厚父母之所生。愛父母之所愛。是宜兄弟。則事親之道。爲一義。又克友乎兄弟。此厚同氣也。是爲一義。然其友愛如此。則是父母亦悅樂之。此亦事親之道。故二者。要之皆是事親之事。夫仁人之事親也。如事天。事天如事親。葢仁孝一理。事天與事親其事雖異。然其心同。其理一也。
新字:君子之道。親親仁民愛物者。有義焉。葢親与民物。三者。皆天之所生。而所愛育也。是以吾事天之道。当厚天之所愛也。吾親之仁之愛之者。乃所以順天心而事之也。此為一義。且三者。本是天地之所生。与吾一気同体。所謂民吾同胞。物吾与也。是不可不厚。故吾親之仁之愛之者。乃所以厚吾気類也。此為一義。然雖有二義。要之皆是事天之道也。人子事親之道。亦猶此。葢為人子者。厚父母之所生。愛父母之所愛。是宜兄弟。則事親之道。為一義。又克友乎兄弟。此厚同気也。是為一義。然其友愛如此。則是父母亦悦楽之。此亦事親之道。故二者。要之皆是事親之事。夫仁人之事親也。如事天。事天如事親。葢仁孝一理。事天与事親其事雖異。然其心同。其理一也。
書き下し
君子の道、親を親しみ民を仁しみ物を愛する者は、義有り。蓋し親と民と物と、三者は皆天の生ずる所にして、愛育する所なり。是を以て吾が天に事ふるの道は、当に天の愛する所を厚くすべし。吾の之を親しみ之を仁しみ之を愛する者は、乃ち天心に順ひて之に事ふる所以なり。此れ一義と為す。且つ三者は本是れ天地の生ずる所にして、吾と一気同体なり。所謂民は吾が同胞、物は吾が与なり。是れ厚くせざるべからず。故に吾の之を親しみ之を仁しみ之を愛する者は、乃ち吾が気類を厚くする所以なり。此れ一義と為す。然れども二義有りと雖も、之を要するに皆是れ天に事ふるの道なり。人子の親に事ふるの道も、亦た此に猶し。蓋し人の子為る者は、父母の生む所を厚くし、父母の愛する所を愛す。是れ兄弟を宜しくすれば、則ち親に事ふるの道なり、一義と為す。又克く兄弟に友なるは、此れ同気を厚くするなり、是れ一義と為す。然れども其の友愛此の如くなれば、則ち是れ父母も亦た之を悦楽す。此れも亦た親に事ふるの道なり。故に二者は、之を要するに皆是れ親に事ふるの事なり。夫れ仁人の親に事ふるや、天に事ふるが如く、天に事ふること親に事ふるが如し。蓋し仁孝は一理なり。天に事ふると親に事ふると、其の事異なりと雖も、然れども其の心同じく、其の理一なり。
現代語訳
君子の道で、親を親しみ、民を慈しみ、物を愛することには、意味があります。親と民と物の三つは、みな天が生み、愛し育てるものです。ですから私が天に仕える道は、天が愛するものを厚く扱うことです。私がそれらを親しみ、慈しみ、愛するのは、天の心に従って天に仕えることなのです。これが一つの意味です。また三つはもともと天地が生んだもので、私と一つの気を分けた同じ体です。いわゆる「民は私の同胞、物は私の仲間」です。これを厚くしないわけにはいきません。ですから私がそれらを親しみ、慈しみ、愛するのは、自分と同じ気の仲間を厚くすることなのです。これがもう一つの意味です。二つの意味がありますが、要するにどちらも天に仕える道です。子が親に仕える道もこれと同じです。子たる者は、父母が生んだ者を大切にし、父母が愛する者を愛します。兄弟と仲良くすることが親に仕える道であるのが一つの意味です。また兄弟に友愛を尽くすのは、同じ気を分けた者を厚くすることで、もう一つの意味です。しかしそのように友愛を尽くせば、父母もまたそれを喜び楽しみます。これも親に仕える道です。ですから二つは要するにどちらも親に仕えることです。仁ある人が親に仕えるのは天に仕えるようであり、天に仕えるのは親に仕えるようです。仁と孝は一つの理です。天に仕えることと親に仕えることは、事柄は違っても、その心は同じで、その理は一つなのです。
解説
この章句が説くこと
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『慎思録』巻之一子弟家に居ては、則ち父母に順ひ、兄弟に宜しく、親戚に敦くす。外に在りては、則ち汎く衆を愛して、仁に親しむ。凡そ人倫に接するに、心を平らかにし気を和らげ、慈愛恭敬、忿を懲らし慾を窒ぎ、自ら反みて己を責め、忍ぶこと有り容るること有り、而して居常善を為すを以て楽しみと為す。此れ学者初学より終身に至るまで、日用当務の工夫、一生の事業為り。先づ須らく此に於て基本を立つべし。
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『囲炉夜話』第百三十二則・孝は百行の先に居り淫は萬惡の首なり常に仁孝の心を存すれば、則ち天下の凡そ爲すべからざる者、皆爲すに忍びず、所以に孝は百行の先に居る。 一たび邪淫の念を起こせば、則ち生平極めて爲すを欲せざる者も、皆爲すに難からず、所以に淫は是れ萬惡の首なり。
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論語・里仁篇子曰わく、ただ仁者のみよく人を好み、よく人を悪む。
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『慎思録』巻之六人、奴僕を使ふの道に於いて、往往心を用ゐず、常に忽略す。夫れ仁者は愛せざること無し。況んや我が僮僕に於いてをや。今日用至近の事を察せざるは、何ぞ思はざるの甚だしきや。此れ之を其の賤悪する所に辟すと謂ふべし。陶淵明、一力を送りて其の子に給する書に曰く、此れも亦人の子なり、善く之を遇すべしと。此の言以て法と為すべし。
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『慎思録』巻之五孟子曰く、君子は親を親しみて民を仁し、民を仁して物を愛す、と。此れ君子の道は仁愛を万物に博くするに在り、而して之を仁愛するの道に、厚薄次序有るを言ふなり。蓋し天地万物は、本自ら一体にして、皆当に之を仁愛すべき所なり。是れ理一なり。而して其の中自ら親疎貴賤の品秩の同じからざる有り。是れ分殊なり。故に仁愛を施すの方は、厚薄の宜しき、先後の序無きこと能はず。故に親を親しみ民を仁し物を愛する、三者緩急軽重有り。紊るべからず。墨氏の兼愛の如きは、是れ三者の差等無きなり。釈氏の殺生を禁戒して人倫を絶滅するが如きは、是れ親貴を薄くして疎賤を厚くす。倒行逆施と謂ふべし。又墨氏の兼愛と異なり。
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『慎思録』巻之二仁は心の徳、愛の理なり。朱子の張敬夫に答ふる書に曰く、愛の理とは、是れ乃ち其の体性を指して言ふ、と。篤信謂ふ、仁に体用有り。然れども心の徳は固より体なり。愛の理も亦た其の体性を指して言へば、則ち用に属せず。倶に仁の体を以て言を為す。雲峯胡氏の心の徳を以て体と為し、愛の理を以て用と為す者は非なり。近ごろ孫詒仲の四書約言を看るに、曰く、事の宜も亦た是れ用に非ず、と。謂ふこころは、事を処するの宜は心に在り、倶に未発を以て言ふ。事の宜と愛の理とは一様なり。猶ほ宜の理と曰ふがごときのみ。愚謂へらく、孫の説の如くんば、則ち事の宜も亦た用に属すべからず。