慎思録 / 巻之四
善學者。志不倦。心不盈。一善之不聞。一理之不知。歉然如飮食之不飽也。此何繇而然哉。誠以道無限。而事無盡也。君子當平居無事時。大率與衆人無異。遇艱難多事。而後見其才器之所蘊蓄。優且長也。所謂不遇盤根錯節。無足以別利器也。
新字:善学者。志不倦。心不盈。一善之不聞。一理之不知。歉然如飲食之不飽也。此何繇而然哉。誠以道無限。而事無尽也。君子当平居無事時。大率与衆人無異。遇艱難多事。而後見其才器之所蘊蓄。優且長也。所謂不遇盤根錯節。無足以別利器也。
書き下し
善く学ぶ者は、志倦まず、心盈たず。一善の聞かず、一理の知らざること、歉然として飲食の飽かざるが如し。此れ何に繇りて然るや。誠に道は限り無くして、事は尽くること無きを以てなり。君子の平居無事の時に当たりては、大率衆人と異なること無し。艱難多事に遇ひて、而る後に其の才器の蘊蓄する所、優れて且つ長ずることを見る。所謂盤根錯節に遇はざれば、以て利器を別つに足ること無きなり。
現代語訳
よく学ぶ者は、志が倦むことがなく、心が満ち足りることがありません。一つの善を聞いていない、一つの理を知らないことを、食べて満腹にならないように物足りなく感じます。なぜそうなのでしょうか。まことに道には限りがなく、事には尽きることがないからです。君子は平穏で何事もない時には、おおむね普通の人と変わりがありません。困難で多事な場面に出会って初めて、その才能と器量に蓄えられたものが優れて長けていることがわかります。いわゆる「入り組んだ根や節に出会わなければ、鋭い刃物を見分けることはできない」ということです。
解説
二つの短い条がつながった単位です。前半は、よく学ぶ人は知らないことがあると空腹のように物足りなく感じ、満足することがないと説きます。道は無限だからです。後半は、君子も平時には普通の人と変わらないが、困難に出会ったときにその器量が現れると言います。「盤根錯節に遇はざれば利器を別つ無し」は『後漢書』虞詡伝の言葉です。学び続ける姿勢と、困難な場面でこそ真価が問われるという認識は、日頃の地道な備えが危機のときに生きることを教えてくれます。
この章句が説くこと
学問志道困難器量
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