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慎思録 / 巻之三

顏師古曰。六經而謂之六藝。葢學者用功於六經。猶農者用功於種藝也。篤信謂。學者之治六經也。須專一。故曰。猶農者用功於種藝也。夫農者之用功於種藝也。貴專一。專一乎此。謂之良農。苟不專一。則秋稼不能豊稔。學者治六經者亦然。故用功於六經專一。謂之善學。夫學功尙專一。其功效尙自得。不專一則迷多岐。而不能直遂。不能直遂。則亦不能自得。何以爲學乎。若夫出入於諸子。涉獵於百家。是治六經之餘事也。猶農者之爲陶冶爲漁獵。非儒者之所爲專務也。

新字:顔師古曰。六経而謂之六芸。葢学者用功於六経。猶農者用功於種芸也。篤信謂。学者之治六経也。須専一。故曰。猶農者用功於種芸也。夫農者之用功於種芸也。貴専一。専一乎此。謂之良農。苟不専一。則秋稼不能豊稔。学者治六経者亦然。故用功於六経専一。謂之善学。夫学功尚専一。其功効尚自得。不専一則迷多岐。而不能直遂。不能直遂。則亦不能自得。何以為学乎。若夫出入於諸子。渉猟於百家。是治六経之余事也。猶農者之為陶冶為漁猟。非儒者之所為専務也。

書き下し

顔師古曰く、六経にして之を六芸と謂ふは、蓋し学者の功を六経に用ふること、猶ほ農者の功を種芸に用ふるがごとし、と。篤信謂ふ、学者の六経を治むるや、須らく専一なるべし。故に曰く、猶ほ農者の功を種芸に用ふるがごとし、と。夫れ農者の功を種芸に用ふるや、専一を貴ぶ。此に専一なる、之を良農と謂ふ。苟も専一ならずんば、則ち秋稼豊稔なる能はず。学者の六経を治むる者も亦然り。故に功を六経に用ふること専一なる、之を善学と謂ふ。夫れ学功は専一を尚び、其の功効は自得を尚ぶ。専一ならざれば則ち多岐に迷ひて、直遂する能はず。直遂する能はざれば、則ち亦自得する能はず。何を以て学と為さんや。若し夫れ諸子に出入し、百家を渉猟するは、是れ六経を治むるの余事なり。猶ほ農者の陶冶を為し漁猟を為すがごとく、儒者の専務と為す所に非ざるなり。

現代語訳

顔師古は「六経を六芸というのは、学ぶ者が六経に力を用いるのが、農民が種まきと耕作に力を用いるようなものだからだ」と言いました。私(篤信)が思うに、学ぶ者が六経を修めるには専一でなければなりません。だから「農民が種まきと耕作に力を用いるようなもの」と言うのです。農民が種まきと耕作に力を用いるには、専一を貴びます。これに専一な者を良い農民といいます。もし専一でなければ、秋の実りは豊かになりません。学ぶ者が六経を修めるのも同じです。だから六経に力を用いて専一な者を、よく学ぶ者というのです。そもそも学問の努力は専一を貴び、その効果は自ら会得することを貴びます。専一でなければ分かれ道が多くて迷い、まっすぐに進めません。まっすぐに進めなければ、自ら会得することもできません。それでどうして学問といえましょう。諸子の書に出入りし、百家を広く読みあさるのは、六経を修めるついでの事です。農民が焼き物や鍛冶をし、漁や狩りをするようなもので、儒者が専らの務めとするものではありません。

解説

唐の顔師古の『漢書』注に見える、六芸の「芸」を種芸(植えつけ)と解する説を手がかりに、学問は農のように専一でなければならないと説きます。専一でなければ多岐に迷い、自得に至らないという論は、巻五の「学は雑えず専一」の条(文中子・程子の引用)とも呼応します。諸子百家は六経の余事で、農家の副業のようなものだという比喩は分かりやすいものです。あれこれ手を広げる前に、自分の本業の核となる学びを深く耕すことが成果につながるという教えは、専門性を磨く今の学び方にも当てはまります。

この章句が説くこと

専一六経学問自得読書

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