慎思録 / 巻之三
聖人有動靜之復。而無善惡之復。衆人雖汨於私欲。亦有善端之發。如乍見孺子將入井。有惻隱之心。是也。是乃衆人之復也。雖小人凶惡之至。然有一念悔悟。亦是復也。
新字:聖人有動静之復。而無善悪之復。衆人雖汨於私欲。亦有善端之発。如乍見孺子将入井。有惻隠之心。是也。是乃衆人之復也。雖小人凶悪之至。然有一念悔悟。亦是復也。
書き下し
聖人は動静の復有りて、善悪の復無し。衆人は私欲に汨ると雖も、亦善端の発有り。乍ち孺子の将に井に入らんとするを見れば、惻隠の心有るが如き、是れなり。是れ乃ち衆人の復なり。小人凶悪の至りと雖も、然れども一念の悔悟有らば、亦是れ復なり。
現代語訳
聖人には動と静の間での復(かえる)はあっても、悪から善への復はありません。世間の人は私欲に沈んでいても、善の芽が現れることがあります。ふと幼い子が井戸に落ちそうなのを見れば、あわれみの心が起こるようなのがそれです。これが世間の人の復です。小人がどれほど凶悪を極めていても、一念の悔い改めがあれば、それもまた復です。
解説
『易』の復卦は、陰が極まった中に一つの陽が戻ってくる卦で、善心の回復の象徴とされます。益軒は、聖人は常に善にあるので善悪の復はなく動静の復だけがあるが、衆人にも『孟子』公孫丑上の「孺子将に井に入らんとす」の惻隠の心のような善端の発があり、それが衆人の復だと言います。さらに凶悪な小人にも一念の悔悟があれば復だとするところに、性善を信じる益軒の温かさがあります。どんな人にも立ち直りの芽があると見ることは、人を育て、自分を立て直すときの希望になります。
この章句が説くこと
復善端性善惻隠悔悟
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