近思録 / 巻1 道体
聖人不言耳。一陽復於下、乃天地生物之心也。先儒皆以靜爲見天地之心、蓋不知動之端、乃天地之心也。非知道者孰能識之?仁者、天下之公、善之本也。有感必有應。凡有動皆爲感、感則必有應。所應復爲感、所感復有應、所以不已也。感通之理、知道者默而觀之可也。天下之理、終而復始、所以恒而不窮。恒、非一定之謂也。一定則不能恒矣。惟隨時變易、乃常道也。天地常久之道、天下常久之理。非知道者孰能識之?人性本善、有不可革者何也?曰:語其性則皆善也、語其才則有下愚之不移。所謂下愚有二焉。自暴也、自棄也。人苟以善自治、則無不可移者。雖昏愚之至、皆可漸磨而進。惟自暴者拒之以不信、自棄者絕之以不爲。雖聖人與居、不能化而入也。仲尼之所謂下愚也。然天下自棄自暴者、非必皆昏愚也。往往強戾而才力有過人者、商辛是也。聖人以其自絕於善、謂之下愚。然考其歸、則誠愚也。既曰下愚、其能革面何也?曰:心雖絕於善道、其畏威而寡罪、則與人同也。惟其有與人同、所以知其非性之罪也、在物爲理、處物爲義。動靜無端、陰陽無始。非知道者、孰能識之?仁者天下之正理。失正理則無序而不和。
新字:聖人不言耳。一陽復於下、乃天地生物之心也。先儒皆以静為見天地之心、蓋不知動之端、乃天地之心也。非知道者孰能識之?仁者、天下之公、善之本也。有感必有応。凡有動皆為感、感則必有応。所応復為感、所感復有応、所以不已也。感通之理、知道者黙而観之可也。天下之理、終而復始、所以恒而不窮。恒、非一定之謂也。一定則不能恒矣。惟随時変易、乃常道也。天地常久之道、天下常久之理。非知道者孰能識之?人性本善、有不可革者何也?曰:語其性則皆善也、語其才則有下愚之不移。所謂下愚有二焉。自暴也、自棄也。人苟以善自治、則無不可移者。雖昏愚之至、皆可漸磨而進。惟自暴者拒之以不信、自棄者絶之以不為。雖聖人与居、不能化而入也。仲尼之所謂下愚也。然天下自棄自暴者、非必皆昏愚也。往往強戻而才力有過人者、商辛是也。聖人以其自絶於善、謂之下愚。然考其帰、則誠愚也。既曰下愚、其能革面何也?曰:心雖絶於善道、其畏威而寡罪、則与人同也。惟其有与人同、所以知其非性之罪也、在物為理、処物為義。動静無端、陰陽無始。非知道者、孰能識之?仁者天下之正理。失正理則無序而不和。
書き下し
聖人言はざるのみ。一陽下に復するは、乃ち天地の物を生ずるの心なり。先儒皆静を以て天地の心を見ると為すは、蓋し動の端乃ち天地の心なるを知らざるなり。道を知る者に非ずんば孰か能く之を識らん。仁なる者は天下の公、善の本なり。感有れば必ず応有り。凡そ動有るは皆感と為す、感ずれば則ち必ず応有り。応ずる所復た感と為り、感ずる所復た応有り、已まざる所以なり。感通の理は、道を知る者黙して之を観て可なり。天下の理は、終はりて復た始まる、恒にして窮まらざる所以なり。恒は一定の謂に非ざるなり。一定なれば則ち恒なること能はず。惟だ時に随ひて変易す、乃ち常道なり。天地常久の道、天下常久の理、道を知る者に非ずんば孰か能く之を識らん。人の性は本善なるに、革むべからざる者有るは何ぞや。曰く、其の性を語れば則ち皆善なり、其の才を語れば則ち下愚の移らざる有り。所謂下愚に二有り。自暴なり、自棄なり。人苟も善を以て自ら治むれば、則ち移すべからざる者無し。昏愚の至りと雖も、皆漸く磨きて進むべし。惟だ自暴する者は之を拒むに信ぜざるを以てし、自棄する者は之を絶つに為さざるを以てす。聖人与に居ると雖も、化して入ること能はざるなり。仲尼の所謂下愚なり。然れども天下の自棄自暴する者は、必ずしも皆昏愚に非ざるなり。往往にして強戾にして才力人に過ぐる者有り、商辛是れなり。聖人其の自ら善を絶つを以て、之を下愚と謂ふ。然れども其の帰を考ふれば、則ち誠に愚なり。既に下愚と曰ふに、其の能く面を革むるは何ぞや。曰く、心は善道を絶つと雖も、其の威を畏れて罪を寡くするは、則ち人と同じきなり。惟だ其の人と同じき有り、其の性の罪に非ざるを知る所以なり。物に在るを理と為し、物に処するを義と為す。動静に端無く、陰陽に始め無し。道を知る者に非ずんば、孰か能く之を識らん。仁なる者は天下の正理なり。正理を失へば則ち序無くして和せず。
現代語訳
聖人はそれを口に出さないだけである。一つの陽が下に戻ってくる(復の卦)のは、天地が万物を生み出す心である。昔の儒者はみな静けさの中に天地の心を見たが、それは動きの始まりこそが天地の心であることを知らなかったのである。道を知る者でなければ、誰がこれを見抜けようか。仁とは天下に開かれた公のものであり、善の根本である。感じるものがあれば必ず応じるものがある。およそ動きはすべて感であり、感じれば必ず応じる。応じたものがまた感となり、感じたものにまた応じる。だから尽きることがない。感じて通じ合うこの理は、道を知る者が黙って観察すればよい。天下の理は、終わってはまた始まる。だから恒久で窮まらないのである。恒とは一か所に固定することを言うのではない。固定すれば恒久ではありえない。時に従って変わっていくこと、それこそが常の道である。天地が長く続く道、天下が長く続く理は、道を知る者でなければ誰が見抜けようか。人の性は本来善であるのに、改めることのできない者がいるのはなぜか。答えて言う。性について言えばみな善である。しかし才(生まれつきの資質)について言えば、「下愚は移らず」という者がいる。いわゆる下愚には二通りある。自暴と自棄である。人がいやしくも善によって自分を治めるなら、変われない者はいない。どれほど暗く愚かな者でも、少しずつ磨いて進むことができる。ただ自暴の者は信じないことによって善を拒み、自棄の者はやらないことによって善を断ち切る。聖人が一緒に暮らしても、感化して善に導き入れることはできない。これが孔子のいう下愚である。しかし天下で自暴自棄する者が、必ずしもみな暗愚なわけではない。しばしば強情でねじけ、才力が人に勝る者がいる。殷の紂王(商辛)がそれである。聖人は彼が自ら善を断ったので、これを下愚と呼んだ。しかしその行き着いた先を考えれば、まことに愚かである。下愚と言っておきながら、顔つきを改めることがあるのはなぜか。答えて言う。心は善の道を断っていても、威を恐れて罪を少なくしようとする点では人と同じである。その人と同じところがあることこそ、それが性の罪ではないと分かる理由である。物の側にあるものを理といい、物に対処する側のものを義という。動と静には端がなく、陰と陽には始まりがない。道を知る者でなければ、誰が見抜けようか。仁とは天下の正しい理である。正しい理を失えば秩序がなくなり、調和しなくなる。
解説
この章句が説くこと
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『近思録』巻1 道体復の卦に「七日にして来復す」と言ふが如き、其の間元より断続せず、陽已に復生す。「物極まれば必ず返る」。其の理須らく此の如くなるべし。生有れば便ち死有り、始め有れば便ち終はり有り。明道先生曰く、天地の間、只だ一箇の感と応と有るのみ。更に甚(なん)の事か有らん。仁を問ふ。伊川先生曰く、此れ諸公自ら之を思ふに在り。聖賢の仁を言ふ所の処を将て、類聚して之を観、体認し出だし来たれ。孟子曰く、「惻隠の心は仁なり」と。後人遂に愛を以て仁と為す。愛は自ら是れ情、仁は自ら是れ性、豈に専ら愛を以て仁と為すべけんや。孟子言ふ、「惻隠の心は仁の端なり」と。既に仁の端と曰へば、則ち便ち之を仁と謂ふべからず。退之言ふ、「博愛之を仁と謂ふ」と、非なり。仁者は固より博愛なり、然れども便ち博愛を以て仁と為すは則ち不可なり。仁と心と何ぞ異なると問ふ。曰く、心は譬へば穀種の如し。生の性は、便ち是れ仁なり。陽気の発する処は、乃ち情なり。義は宜と訓じ、礼は別と訓ず、仁は当に何と訓ずべき。説く者覚と訓じ人と訓ずと謂ふも、皆非なり。当に孔孟の仁を言ふ処を合はせて、大概之を研窮すべし、二三歳にして之を得るも未だ晩からざるなり。
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『近思録』巻1 道体心に善悪有りや否やと問ふ。曰く、天に在りては命と為し、物に在りては理と為し、人に在りては性と為し、身に主たるは心と為す、其の実は一なり。心は本善なり、思慮に発すれば則ち善有り不善有り。若し既に発すれば則ち之を情と謂ふべく、之を心と謂ふべからず。譬へば水の如し、只だ之を水と謂ふべし。流れて派と為り、或いは東に行き或いは西に行くに至りては、却って之を流と謂ふなり。性は天より出で、才は気より出づ。気清ければ則ち才清く、気濁れば則ち才濁る。才は則ち善有り不善有り、性は則ち不善無し。性なる者は自然に完具す。信は只だ是れ此れ有る者なり。故に四端に信を言はず。心は生道なり。是の心有れば、斯に是の形を具へて以て生ず。惻隠の心は、人の生道なり。横渠先生曰く、気は坱然として太虚、升降飛揚して、未だ嘗て止息せず。此れ虚実動静の機、陰陽剛柔の始めなり。浮かびて上る者は陽の清、降りて下る者は陰の濁。其の感遇聚結して風雨と為り、霜雪と為る。万品の流行、山川の融結、糟粕煨燼、教へに非ざる無きなり。遊気紛擾し、合して質を成す者、人物の万殊を生ず。其の陰陽の両端、循環して已まざる者、天地の大義を立つ。天は物を体して遺さず、猶ほ仁の事を体して在らざる無きがごときなり。「礼儀三百、威儀三千」。一物として仁に非ざる無きなり。「昊天を明と曰ふ、爾の出王に及ぶ。昊天を旦と曰ふ、爾の遊衍に及ぶ」。一物の体せざる無きなり。鬼神なる者は二気の良能なり。物の初めて生ずるや、気日に至りて滋息す。物生じて既に盈つれば、気日に反りて遊散す。至る之を神と謂ふ、其の伸ぶるを以てなり。反る之を鬼と謂ふ、其の帰るを以てなり。性なる者は万物の一源にして、我の得て私する有るに非ざるなり。惟だ大人のみ能く其の道を尽くすと為す。是の故に立つには必ず倶に立ち、知るには必ず周く知り、愛するには必ず兼ねて愛し、成すには独り成さず。
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『近思録』巻1 道体濂渓曰く、「誠は無為なり、幾は善悪なり。徳の愛するを仁と曰ひ、宜しきを義と曰ひ、理(おさ)まるを礼と曰ひ、通ずるを智と曰ひ、守るを信と曰ふ。性のままにして安んずる、之を聖と謂ひ、復りて執る、之を賢と謂ふ。発すること微にして見るべからず、充ち周くして窮むべからざる、之を神と謂ふ。」伊川曰く、「喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂ふ。」中なる者は、「寂然として動かず」なる者を言ふなり。故に「天下の大本」と曰ふ。「発して皆節に中る、之を和と謂ふ」。和なる者は、「感じて遂に通ず」なる者を言ふなり。故に「天下の達道」と曰ふ。伊川曰く、心は一なり。体を指して言ふ者有り、用を指して言ふ者有り、惟だ其の見る所の何如を観るのみ。伊川曰く、乾は天なり。天なる者は乾の形体、乾なる者は天の性情なり。乾は健なり。健にして息む無き、之を乾と謂ふ。夫れ天は専ら之を言へば、則ち道なり。「天すら且つ違はず」是れなり。分けて之を言へば、則ち形体を以て之を天と謂ひ、主宰を以て之を帝と謂ひ、功用を以て之を鬼神と謂ひ、妙用を以て之を神と謂ひ、性情を以て之を乾と謂ふ。伊川曰く、四徳の元は、猶ほ五常の仁のごとし。偏言すれば則ち一事、専言すれば則ち四者を包む。天の賦する所を命と為し、物の受くる所を性と為す。鬼神なる者は造化の迹なり。剝の卦たる、諸陽消剝して已に尽き、独り上九の一爻のみ尚ほ存する有り。碩大の果の食はれずして、将に復た生ずるの理有らんとするが如し。上九も亦た変ずれば、則ち純陰なり。然れども陽に尽くべきの理無し。上に変ずれば則ち下に生じ、間の息を容るべき無きなり。聖人此の理を発明して、以て陽と君子の道の亡ぶべからざるを見す。或るひと曰く、「剝尽くれば則ち純坤と為る、豈に復た陽有らんや。」曰く、卦を以て月に配すれば、則ち坤は十月に当たる。気の消息を以て言へば、則ち陽剝して坤と為り、陽来たりて復と為る、陽未だ嘗て尽きざるなり。上に剝尽くれば、則ち下に復生す。故に十月之を陽月と謂ふは、其の陽無きを疑はんことを恐るるなり。陰も亦た然り。
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『近思録』巻1 道体性は即ち理なり。天下の理、その自る所を原ぬれば、未だ不善有らず。喜怒哀楽の未だ発せざる、何ぞ嘗て不善ならん。発して節に中れば、則ち往くとして善ならざる無し。凡そ善悪を言うは、皆な善を先にして悪を後にす。吉凶を言うは、皆な吉を先にして凶を後にす。是非を言うは、皆な是を先にして非を後にす。
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『慎思録』巻之四乖戻して常を失ふ所以の者は然るなり。故に陰陽時有りて乖戻すと雖も、天地の道、正にして常なる者は、自若として之が主宰と為る。故に陰陽も亦た其の正に帰せざること能はず。是を以て陰陽不正の時有りと雖も、亦た天地の道に非ずと謂ふべからざるなり。明道曰く、善悪皆天理なり。之を悪と謂ふ者も本悪に非ず。但だ或いは過ぎ或いは及ばずして便ち此の如し、と。亦た此の意なり。之を穀肉に譬ふ。食の美なる者なり。而して食の饐餲し、肉の餒敗する者は、是れ穀肉の変じて腐壊するなり。食ふべからず。腐壊して食ふべからずと雖も、之を穀肉に非ずと謂ふは則ち不可なり。然らば則ち小人の凶悪、陰陽の災沴、皆是れ天理の変じて正しからざる者為り。天地の理は、陰陽の主為りと雖も、然れども本是れ無心なり。陰陽を節制して之をして其の宜しきに適はしむること能はず。是を以て独り位育の功を成すこと能はず。必ず聖人の栽成を須つこと有り。聖人は心有りて此の道を維持し、中を民に建つ。中は則ち過不及無きの理なり。故に中なる者は聖人此の道を維持するの心法なり。聖人は天を継ぎて極を立て、天地の道を裁成し、以て天地の化育の及ばざる所を輔相す。
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