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慎思録 / 巻之三

君有當忠之理。父有當孝之理。子有當慈之理。此則在物之理。而吾孝之忠之慈之者。此在我之理也。此雖物我一理。然亦謾混同。只曰一理。則恐於一本萬殊物我體用處。猶有所未瑩也。程子曰。在物爲理。處物爲義。此在物在我之異也。雖然在物之理。與在我之理。通徹無隔。在我之理。亦合乎在物之理。則豈有內外彼我之別乎。以理爲徧在物。是告子義外之說也。以理爲專在心。是陸子遺物之學也。謾曰只一理。亦冥然不明。亂雜無章。只說以物我爲理一分殊。而相爲體用者。恐爲得之。

新字:君有当忠之理。父有当孝之理。子有当慈之理。此則在物之理。而吾孝之忠之慈之者。此在我之理也。此雖物我一理。然亦謾混同。只曰一理。則恐於一本万殊物我体用処。猶有所未瑩也。程子曰。在物為理。処物為義。此在物在我之異也。雖然在物之理。与在我之理。通徹無隔。在我之理。亦合乎在物之理。則豈有内外彼我之別乎。以理為遍在物。是告子義外之説也。以理為専在心。是陸子遺物之学也。謾曰只一理。亦冥然不明。乱雑無章。只説以物我為理一分殊。而相為体用者。恐為得之。

書き下し

君に忠なるべきの理有り、父に孝なるべきの理有り、子に慈なるべきの理有り。此れ則ち物に在るの理にして、吾の之に孝し之に忠し之に慈する者は、此れ我に在るの理なり。此れ物我一理なりと雖も、然れども亦謾りに混同して、只一理と曰はば、則ち恐らくは一本万殊物我体用の処に於て、猶ほ未だ瑩らかならざる所有らん。程子曰く、物に在るを理と為し、物に処するを義と為す、と。此れ物に在ると我に在るとの異なり。然りと雖も物に在るの理と、我に在るの理とは、通徹して隔て無し。我に在るの理も、亦物に在るの理に合へば、則ち豈に内外彼我の別有らんや。理を以て徧く物に在りと為すは、是れ告子の義外の説なり。理を以て専ら心に在りと為すは、是れ陸子の物を遺るの学なり。謾りに只一理と曰ふも、亦冥然として明らかならず、乱雑にして章無し。只物我を以て理一分殊と為して、相体用を為すと説く者、恐らくは之を得たりと為さん。

現代語訳

主君には忠を尽くすべき理があり、父には孝を尽くすべき理があり、子には慈しむべき理があります。これは物(相手)の側にある理で、私が孝を尽くし、忠を尽くし、慈しむのは、私の側にある理です。これは物と我とが一つの理だとはいえ、むやみに混同してただ一つの理と言えば、おそらく一つの本と万の違い、物と我、体と用の関係について、まだはっきりしないところがあるでしょう。程子は「物にあるのを理とし、物に対処するのを義とする」と言いました。これが物にあるものと我にあるものとの違いです。しかし物にある理と我にある理とは、通じ合っていて隔てがありません。我にある理も物にある理に合っているなら、どうして内と外、彼と我の区別がありましょうか。理がもっぱら物にあるとするのは、告子の「義は外にある」という説です。理がもっぱら心にあるとするのは、陸象山の物を捨てる学問です。むやみにただ一つの理と言うのも、ぼんやりとして明らかでなく、乱雑で筋道がありません。ただ物と我とを理一分殊とし、互いに体と用をなすと説くのが、おそらく正しいのでしょう。

解説

理が物の側にあるのか心の側にあるのかという、朱子学と陸王学を分ける根本問題を論じた一条です。程頤の「物に在るを理と為し、物に処するを義と為す」を引き、理を外だけに置く告子の義外説(『孟子』告子上)と、心だけに置く陸象山の説の両方を退けます。益軒は、物と我を理一分殊、体用の関係で捉えるのが妥当だとしました。相手の側にある求めと、それに応える自分の側の心がけを分けつつ結ぶ考え方は、顧客や同僚と向き合う仕事の姿勢にも応用できます。

この章句が説くこと

理一分殊体用物我

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