慎思録 / 巻之一
在物爲理。處物爲義。譬之飢人。欲食之理在彼。與食之宜在我。如父。宜愛敬之理在彼。當愛敬之義在我。是理義之辨也。所以然者理也。所當然者義也。亦是此意。
新字:在物為理。処物為義。譬之飢人。欲食之理在彼。与食之宜在我。如父。宜愛敬之理在彼。当愛敬之義在我。是理義之弁也。所以然者理也。所当然者義也。亦是此意。
書き下し
物に在るを理と為し、物に処するを義と為す。之を飢人に譬ふれば、食を欲するの理は彼に在り、食を与ふるの宜しきは我に在り。父の如きは、宜しく愛敬すべきの理は彼に在り、当に愛敬すべきの義は我に在り。是れ理義の弁なり。然る所以の者は理なり、当に然るべき所の者は義なり。亦是れ此の意なり。
現代語訳
物の側にあるのを理といい、物に対処するのを義といいます。飢えた人にたとえれば、食べ物を欲しがる理は相手の側にあり、食べ物を与えるのが宜しいという判断は自分の側にあります。父でいえば、愛し敬うべき理は父の側にあり、愛し敬うべきであるという義は自分の側にあります。これが理と義の区別です。そうなっている理由が理であり、当然そうすべきことが義であるというのも、この意味です。
解説
朱子学の基本語である理と義の違いを、具体例で分かりやすく示した条です。「物に在るを理と為し、物に処するを義と為す」は程伊川の言葉とされます。飢えた人がいれば食べたいという理は相手にあり、与えるべきだと判断して動くのは自分の義だ、という説明は明快です。「然る所以」と「当に然るべき所」の区別も朱子がよく用いたものです。目の前の状況を正しく理解することと、それにどう応じるかを決めることは、別の働きだと意識すると判断が整理されます。
この章句が説くこと
理義程子判断朱子学
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