弁名 / 理氣人欲
夫理者事物皆有之。故理者纖細者也。宋儒之意。謂合其細可以成其大矣。豈其然哉。銖銖而求之。至鈞而差。寸寸而求之。至丈而差。何者。凡人所見者小。而聖人所見者大也。所見者大。則小者不遺。聖人之所以不可及也。人苟循聖人之敎而得其大者。則小者自不失焉。其或雖失之。亦無大害焉。何則。不失其大者故也。大者何。禮與義是也。聖人之所立極也。宋儒之尙理。其究歸於不師聖人而自用。是其所以失也。
新字:夫理者事物皆有之。故理者繊細者也。宋儒之意。謂合其細可以成其大矣。豈其然哉。銖銖而求之。至鈞而差。寸寸而求之。至丈而差。何者。凡人所見者小。而聖人所見者大也。所見者大。則小者不遺。聖人之所以不可及也。人苟循聖人之教而得其大者。則小者自不失焉。其或雖失之。亦無大害焉。何則。不失其大者故也。大者何。礼与義是也。聖人之所立極也。宋儒之尚理。其究帰於不師聖人而自用。是其所以失也。
書き下し
夫れ理は事物皆之れ有り。故に理は繊細なる者なり。宋儒の意、其の細を合すれば以て其の大を成すべしと謂ふ。豈に其れ然らんや。銖銖にして之を求むれば、鈞に至りて差ふ。寸寸にして之を求むれば、丈に至りて差ふ。何となれば、凡人の見る所は小にして、聖人の見る所は大なり。見る所大なれば、則ち小なる者遺れず。聖人の及ぶべからざる所以なり。人苟も聖人の教に循ひて其の大なる者を得れば、則ち小なる者自ら失はず。其れ或いは之を失ふと雖も、亦た大害無し。何となれば、其の大なる者を失はざるが故なり。大なる者は何ぞ。礼と義と是れなり。聖人の極を立つる所なり。宋儒の理を尚ぶ、其の究は聖人を師とせずして自ら用ふるに帰す。是れ其の失する所以なり。
現代語訳
そもそも理はどんな物事にもある。だから理は細かいものである。宋儒の考えは、細かいものを合わせれば大きなものを成せる、というのである。どうしてそうであろうか。一銖ずつ量っていけば、一鈞(三十斤)に至ると狂いが出る。一寸ずつ測っていけば、一丈に至ると狂いが出る。なぜなら、凡人の見るところは小さく、聖人の見るところは大きいからである。見るところが大きければ、小さいものも落とさない。聖人が及びがたいのはそのためである。人がもし聖人の教えに従って大きなものを得れば、小さなものは自然に失われない。たとえ失うことがあっても大きな害はない。大きなものを失っていないからである。大きなものとは何か。礼と義がそれである。聖人が基準として立てたものである。宋儒が理を尊ぶことは、結局、聖人を師とせず自分の考えを用いることに行き着く。それが彼らの誤りの理由である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『弁名』理氣人欲故に理苟も之を究めざれば、則ち能く得て一にする莫し。然れども天下の理、豈に究め尽くすべけんや。惟だ聖人のみ能く我の性を尽くし、能く人の性を尽くし、能く物の性を尽くして、天地と其の徳を合す。故に惟だ聖人のみ能く理を究めて之が極を立つる有り。礼と義と是れなり。故に説卦の所謂理を究むとは、聖人の事にして、凡人の能はざる所なり。故に先王孔子の道は、義を言ひて理を言はず。是れ豈に理を廃せんや。苟も能く先王の義を執りて以て其の理を推せば、則ち見る所定準有りて理得るが故なり。理は人皆見る所、故に之を言ふを待たざるなり。老荘の徒盛んに理を言ふは、先王の道を廃するが故なり。自然を貴ぶが故なり。
-
『弁名』理氣人欲故に不学の人と雖も、苟も能く思へば、則ち非理の事を為さず。夫の非礼の礼、非義の義の若きは、則ち君子に非ずんば之を弁ずる能はざる者なり。学ばざるが故なり。世の宋儒為る者、猶ほ且つ以て然りと為さず、必ず将に曰はんとす、「礼義は誠に聖人の立つる所なり。然れども苟も聖人の礼義を立つる所以の理を知らずして、徒らに其の所謂礼義なる者を守らば、則ち非礼の礼、非義の義の由りて生ずる所なり」と。是れ宋儒の務めて理を究むるの意しか云ふ。殊に知らず、是れ其の聖人に勝ちて之に上らんと欲する者、亦た自ら揣らざるの甚だしき者なるを。何ぞや。是れ聖人の教に循はずして、先づ聖人の心を獲んと欲する者なり。天下豈に之れ有らんや。
-
『弁名』義又裁割決断を以て義と為すが如きも、亦た先王の義を執りて此を以て裁割決断するのみ。苟も先王の義を知らざれば、則ち猶ほ空手にて物を裁つがごとし。安んぞ之を能くせんや。又人多く義理を以て並べ言ふ。程子の「物に在るを理と為し、物を処するを義と為す」と曰ふが如き、是れなり。是れも亦た義を知らざる者の言なり。仮如へば日に行くこと百里なるべくして、二百里なるべからず。是れ理なり。必ず其の二百里を求む、是れ非理なり。一日にして百里、二日にして二百里、是れ之を理に合ふと謂ふのみ。未だ之を義に合ふと謂ふを得ず。猶ほ之れ百里を行くがごとし。諸侯の天子に朝する、日を見て行き、日に逮びて舎奠す。大夫の使する、日を見て行き、日に逮びて舎す。星を見て行く者は、唯だ罪人と父母の喪に奔る者とのみ。是れ所謂礼なり。父母の邦を去るに、「遅遅として吾行く」。豈に日の力を窮めんや。是れ所謂義なり。故に理は学ばずと雖も知るべし。而して礼と義との若きは、君子に非ざれば則ち之を知ること能はず。故に人の非理の事を為さざるは、未だ以て君子と為すに足らず。唯だ非礼と非義とを為さず、然る後以て君子と為すべし。故に義理を以て並べ言ふ者は、義を知らざる者の言なり。
-
『弁名』理氣人欲夫れ道は聖人の立つる所、豈に道を見るを以て言ふを容れんや。又た豈に老氏と対言するを容れんや。夫れ道は民を安んずる所以なり。又た豈に生生化化を以て言ふを容れんや。理の玉に従ひ里に従ふは、亦た倉頡字を制する時、且く此を以て記憶に便するのみ。豈に泥むを容れんや。且つ道も亦た諸を道路に本づく。豈に死活有らんや。祇だ道は之を行ふを主とし、理は之を見るを主とす。老荘及び宋儒は皆其の見る所を主とす。故に喜んで理を言ふのみ。若し死活を以て説を為さば、則ち老荘も亦た道徳を言ふ、其れ之を何と謂はん。之を要するに理豈に廃するを容れんや。苟も聖人の教に遵ひ、礼義を以て之が極と為せば、則ち理豈に以て病と為すに足らんや。仁斎先生は羹に懲りて韲を吹くと謂ふべきのみ。学者諸を思へ。
-
『慎思録』巻之一物に在るを理と為し、物に処するを義と為す。之を飢人に譬ふれば、食を欲するの理は彼に在り、食を与ふるの宜しきは我に在り。父の如きは、宜しく愛敬すべきの理は彼に在り、当に愛敬すべきの義は我に在り。是れ理義の弁なり。然る所以の者は理なり、当に然るべき所の者は義なり。亦是れ此の意なり。
-
『慎思録』巻之四朱子曰く、天下の物は、必ず各其の然る所以の故と、其の当に然るべき所の則と有り。所謂理なり、と。愚謂へらく、二者は姑く事親の一事を以て之を言はん。我の父母に於けるや、資始資生の恩有りて、天地と斉し。且つ其の幼より長に至るまで、鞠育教誨の愛も亦た至れり。昊天罔極と謂ふべし。是れ父母に孝なる所以然の故なり。父母に事ふるの道、当に其の功を用ふべき者は、愛敬を致して其の力を竭くすに在り。且つ志を養ひ口体を養ふことを加へ、温凊定省、皆闕くべからざる所なり。是れ所当然の則なり。故と則と皆是れ理なり。然れども別ちて之を言へば、所以然の故なる者は理なり、所当然の則なる者は義なり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る