弁名 / 理氣人欲
孟子亦好辯。而欲言先王孔子之所不言者以喩人。故曰。理義之悅我心。猶芻豢之悅我口。但其以義連言者。孔子之澤未斬耳。及至宋諸老先生。生於千載之後。其操志之銳。直求爲聖人。而不得其道也。昧於古言而不得其說也。獨喜孟子之若易讀。而求諸己心。則不得不求諸其理焉。是其以理爲第一義者。勢之所必至也。
新字:孟子亦好弁。而欲言先王孔子之所不言者以喩人。故曰。理義之悦我心。猶芻豢之悦我口。但其以義連言者。孔子之沢未斬耳。及至宋諸老先生。生於千載之後。其操志之鋭。直求為聖人。而不得其道也。昧於古言而不得其説也。独喜孟子之若易読。而求諸己心。則不得不求諸其理焉。是其以理為第一義者。勢之所必至也。
書き下し
孟子も亦た弁を好みて、先王孔子の言はざる所の者を言ひて以て人を喩さんと欲す。故に曰く、「理義の我が心を悦ばすは、猶ほ芻豢の我が口を悦ばすがごとし」と。但だ其の義を以て連言する者は、孔子の沢未だ斬えざるのみ。宋の諸老先生に至りて、千載の後に生まれ、其の志を操ること鋭く、直ちに聖人為らんことを求むるも、其の道を得ざるなり。古言に昧くして其の説を得ざるなり。独り孟子の読み易きが若きを喜びて、諸を己が心に求むれば、則ち諸を其の理に求めざるを得ず。是れ其の理を以て第一義と為す者は、勢の必ず至る所なり。
現代語訳
孟子もまた議論を好み、先王や孔子が言わなかったことを言って人をさとそうとした。だから「理と義が私の心を喜ばせるのは、肉が私の口を喜ばせるようなものだ」と言った。ただ、義と並べて言っているのは、孔子の遺風がまだ絶えていなかったからである。宋の諸先生に至っては、千年の後に生まれ、志を持つことは鋭く、まっすぐ聖人になろうとしたが、その道を得なかった。古い言葉に暗くて、その説を得なかったのである。ただ孟子が読みやすそうなのを喜び、自分の心に答えを求めたので、理に求めざるをえなかった。彼らが理を第一義としたのは、成り行き上必ずそうなることだったのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之四朱子曰く、天下の物は、必ず各其の然る所以の故と、其の当に然るべき所の則と有り。所謂理なり、と。愚謂へらく、二者は姑く事親の一事を以て之を言はん。我の父母に於けるや、資始資生の恩有りて、天地と斉し。且つ其の幼より長に至るまで、鞠育教誨の愛も亦た至れり。昊天罔極と謂ふべし。是れ父母に孝なる所以然の故なり。父母に事ふるの道、当に其の功を用ふべき者は、愛敬を致して其の力を竭くすに在り。且つ志を養ひ口体を養ふことを加へ、温凊定省、皆闕くべからざる所なり。是れ所当然の則なり。故と則と皆是れ理なり。然れども別ちて之を言へば、所以然の故なる者は理なり、所当然の則なる者は義なり。
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『弁名』理氣人欲故に理苟も之を究めざれば、則ち能く得て一にする莫し。然れども天下の理、豈に究め尽くすべけんや。惟だ聖人のみ能く我の性を尽くし、能く人の性を尽くし、能く物の性を尽くして、天地と其の徳を合す。故に惟だ聖人のみ能く理を究めて之が極を立つる有り。礼と義と是れなり。故に説卦の所謂理を究むとは、聖人の事にして、凡人の能はざる所なり。故に先王孔子の道は、義を言ひて理を言はず。是れ豈に理を廃せんや。苟も能く先王の義を執りて以て其の理を推せば、則ち見る所定準有りて理得るが故なり。理は人皆見る所、故に之を言ふを待たざるなり。老荘の徒盛んに理を言ふは、先王の道を廃するが故なり。自然を貴ぶが故なり。
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『慎思録』巻之一物に在るを理と為し、物に処するを義と為す。之を飢人に譬ふれば、食を欲するの理は彼に在り、食を与ふるの宜しきは我に在り。父の如きは、宜しく愛敬すべきの理は彼に在り、当に愛敬すべきの義は我に在り。是れ理義の弁なり。然る所以の者は理なり、当に然るべき所の者は義なり。亦是れ此の意なり。
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『慎思録』巻之三君に忠なるべきの理有り、父に孝なるべきの理有り、子に慈なるべきの理有り。此れ則ち物に在るの理にして、吾の之に孝し之に忠し之に慈する者は、此れ我に在るの理なり。此れ物我一理なりと雖も、然れども亦謾りに混同して、只一理と曰はば、則ち恐らくは一本万殊物我体用の処に於て、猶ほ未だ瑩らかならざる所有らん。程子曰く、物に在るを理と為し、物に処するを義と為す、と。此れ物に在ると我に在るとの異なり。然りと雖も物に在るの理と、我に在るの理とは、通徹して隔て無し。我に在るの理も、亦物に在るの理に合へば、則ち豈に内外彼我の別有らんや。理を以て徧く物に在りと為すは、是れ告子の義外の説なり。理を以て専ら心に在りと為すは、是れ陸子の物を遺るの学なり。謾りに只一理と曰ふも、亦冥然として明らかならず、乱雑にして章無し。只物我を以て理一分殊と為して、相体用を為すと説く者、恐らくは之を得たりと為さん。
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『弁名』義又裁割決断を以て義と為すが如きも、亦た先王の義を執りて此を以て裁割決断するのみ。苟も先王の義を知らざれば、則ち猶ほ空手にて物を裁つがごとし。安んぞ之を能くせんや。又人多く義理を以て並べ言ふ。程子の「物に在るを理と為し、物を処するを義と為す」と曰ふが如き、是れなり。是れも亦た義を知らざる者の言なり。仮如へば日に行くこと百里なるべくして、二百里なるべからず。是れ理なり。必ず其の二百里を求む、是れ非理なり。一日にして百里、二日にして二百里、是れ之を理に合ふと謂ふのみ。未だ之を義に合ふと謂ふを得ず。猶ほ之れ百里を行くがごとし。諸侯の天子に朝する、日を見て行き、日に逮びて舎奠す。大夫の使する、日を見て行き、日に逮びて舎す。星を見て行く者は、唯だ罪人と父母の喪に奔る者とのみ。是れ所謂礼なり。父母の邦を去るに、「遅遅として吾行く」。豈に日の力を窮めんや。是れ所謂義なり。故に理は学ばずと雖も知るべし。而して礼と義との若きは、君子に非ざれば則ち之を知ること能はず。故に人の非理の事を為さざるは、未だ以て君子と為すに足らず。唯だ非礼と非義とを為さず、然る後以て君子と為すべし。故に義理を以て並べ言ふ者は、義を知らざる者の言なり。
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『弁名』理氣人欲夫れ理は事物皆之れ有り。故に理は繊細なる者なり。宋儒の意、其の細を合すれば以て其の大を成すべしと謂ふ。豈に其れ然らんや。銖銖にして之を求むれば、鈞に至りて差ふ。寸寸にして之を求むれば、丈に至りて差ふ。何となれば、凡人の見る所は小にして、聖人の見る所は大なり。見る所大なれば、則ち小なる者遺れず。聖人の及ぶべからざる所以なり。人苟も聖人の教に循ひて其の大なる者を得れば、則ち小なる者自ら失はず。其れ或いは之を失ふと雖も、亦た大害無し。何となれば、其の大なる者を失はざるが故なり。大なる者は何ぞ。礼と義と是れなり。聖人の極を立つる所なり。宋儒の理を尚ぶ、其の究は聖人を師とせずして自ら用ふるに帰す。是れ其の失する所以なり。
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