慎思録 / 巻之三
抱朴子曰。玄蟬潔饑。不羨蜣蜋穢飽。愚謂。是言君子所以安貧賤。而不貪富貴也。家禮曰。立春祭先祖。程子曰。始祖以下高祖以上之祖也。語類曰。立春祭先祖。則何祖。曰。自始祖下之第二世及己身巳上第六世之祖。曰。何以只設二位。曰。此只是以意享之而已。又曰。伊川時祭止於高祖。高祖而上。則於立春設二位。統祭之而不用主。愚謂。初祖以下高祖以上之祖。不能遍擧盡祭。故只擧其始終。設二位而祭之。以統其餘與。所謂自始祖下之第二世者。乃始祖之子也。己身巳上第六世之祖者。乃高祖之父也。
新字:抱朴子曰。玄蝉潔饑。不羨蜣蜋穢飽。愚謂。是言君子所以安貧賤。而不貪富貴也。家礼曰。立春祭先祖。程子曰。始祖以下高祖以上之祖也。語類曰。立春祭先祖。則何祖。曰。自始祖下之第二世及己身巳上第六世之祖。曰。何以只設二位。曰。此只是以意享之而已。又曰。伊川時祭止於高祖。高祖而上。則於立春設二位。統祭之而不用主。愚謂。初祖以下高祖以上之祖。不能遍挙尽祭。故只挙其始終。設二位而祭之。以統其余与。所謂自始祖下之第二世者。乃始祖之子也。己身巳上第六世之祖者。乃高祖之父也。
書き下し
抱朴子曰く、玄蝉は潔く饑うるも、蜣蜋の穢れて飽くを羨まず、と。愚謂へらく、是れ君子の貧賤に安んじて、富貴を貪らざる所以を言ふなり。家礼に曰く、立春に先祖を祭る、と。程子曰く、始祖以下高祖以上の祖なり、と。語類に曰く、立春に先祖を祭るは、則ち何れの祖ぞ、と。曰く、始祖より下の第二世及び己が身より已上の第六世の祖なり、と。曰く、何を以て只二位を設くるか、と。曰く、此れ只是れ意を以て之を享くるのみ、と。又曰く、伊川の時祭は高祖に止まる。高祖よりして上は、則ち立春に二位を設けて、統べて之を祭りて主を用ひず、と。愚謂へらく、初祖以下高祖以上の祖は、遍く挙げて尽く祭る能はず。故に只其の始終を挙げて、二位を設けて之を祭り、以て其の余を統ぶるか。所謂始祖より下の第二世とは、乃ち始祖の子なり。己が身より已上の第六世の祖とは、乃ち高祖の父なり。
現代語訳
『抱朴子』に「黒い蝉は清らかに飢えても、糞虫が汚れて満腹なのをうらやまない」とあります。私が思うに、これは君子が貧賤に安んじて富貴をむさぼらない理由を言ったものです。『家礼』に「立春に先祖を祭る」とあります。程子は「始祖より下、高祖より上の祖先である」と言いました。『朱子語類』に「立春に先祖を祭るのは、どの祖先か」と問うと、「始祖の下の第二代から、自分から数えて上の第六代の祖先までである」と答えています。「なぜ位牌を二つだけ設けるのか」と問うと、「これはただ心で供えるだけである」と答えています。また「程伊川の四季の祭りは高祖までで、高祖より上は立春に二つの位を設けて、まとめて祭り、位牌は用いない」とあります。私が思うに、初祖より下、高祖より上の祖先は、全部挙げてすべて祭ることはできません。だからその始めと終わりだけを挙げて二つの位を設けて祭り、それで残りをまとめたのでしょうか。いわゆる「始祖の下の第二代」とは始祖の子であり、「自分から上の第六代の祖」とは高祖の父です。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『呻吟語』内篇・倫理・福を求むるは已に君子の心に非ず郊社は、天地生成の大德に報ゆるなり。然れども災沴には禳有り、順成には祈有り。君の私田を為すは則ち仁、民の公田を為すは則ち忠なり。福を求むるを嫌はず、禍を免るるを嫌はず。子孫の先祖を祭るは、追養繼孝を以てなり。我が祖父母より此の身有るなり。曰く、「先人の澤に賴りて、以て其の餘慶を享く」と。曰く、「吾朝夕奉養して歡を承けしに、一旦復た杯棬を獻ぜず、心悲思して寄する無し、故に祭薦して以て吾が情を伸ぶるなり」と。曰く、「吾貧賤にして菽水を供するに足らず、今鼎食するも親逮ばず、心悲思して及ぶ莫し、故に祭薦して以て吾が悔いを志すなり」と。豈に其の遊魂虛位の能く我を福せんが為に之を求めんや。福を求むるは已に君子の心に非ず。而して一飯の設、數拜の勤を以て、福を先人に求む、仁孝誠敬の心果たして是くのごとくならんや。利を謀らず、報を責めず、其の感激を望まず。他人に在りてすら猶ほ然り、而るに況んや我が先人をや。『詩』の祭は必ず福を言ふ、而して『楚茨』の諸詩を尤も甚だしと為す、豈に訓と為す可けんや。吾獨り『采蘩』『采蘋』の二詩に取る有り。物を盡くし志を盡くし、以て吾が子孫の誠敬を達するのみ、他は及ばざるなり。此の道に明らかならば、則ち天下の萬事萬物皆我の當に為すべき所を盡くし、禍福利害は皆其の自ら至るに聽す。人事脩まりて外慕の心息み、道に向かふこと專らにして作輟の念忘れん。何者ぞ。性分に明らかにして冀悻する所無ければなり。
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『呻吟語』外篇・品藻・古人の笑ふ所宋儒は古に泥み、更に古昔の真偽、今世の是非を考へず。只だ祭祀一節の如し。古人は席地にして飲食に便ならず。故に簠簋籩豆を尚び、其の器は皆な高し。今古人を祭るに之を用ふるは、其の時に從ふなり。子孫の祖考を祭るは、只だ祖考の常に用ひし所の宜しきを用ふ可し。而るに簠簋籩豆是れ設くるは可ならんや。諸の此の類の如きは甚だ多く、皆な古人の笑ふ所なり。古人をして今に生まれしめば、舉動必ず此の如くならざらん。
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論語・八佾篇子曰く、『禘は既に灌より往くもの、吾これを観るを欲せざるなり。』
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『墨子』明鬼下今、無鬼を執る者曰く、意うに親の利に忠ならずして、孝子を害するを為さんか、と。子墨子曰く、古今の鬼を為すは、他に非ざるなり。天鬼有り、亦た山川鬼神なる者有り、亦た人、死して鬼と為る者有り。今、子の其の父に先んじて死し、弟の其の兄に先んじて死する者有り。意うに死すること然りと雖も、然り而して天下の陳物、曰く、先に生まるる者は先に死す、と。是くの若くんば、則ち先に死する者は父に非ざれば則ち母、兄に非ざれば而ち姒なり。今、潔く酒醴粢盛を為りて、以て敬み慎みて祭祀す。若し鬼神をして誠に有らしめば、是れ其の父母姒兄を得て之に飲食せしむるなり。豈に厚利に非ざらんや。
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『呻吟語』内篇・談道・鑿ちて求む可からず、道破す可からず鬼神を敬事するは、聖人の世教を維持する大端なり。其の義は深く、其の功は大なり。但だ自ら鑿ちて求む可からず、道破す可からざるのみ。
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