都鄙問答 / 卷之二・鬼神ヲ遠ト云事ヲ問ノ段
又問、或人云、子曰、非其鬼而祭之諂也、祭ベカラズトノ玉フ、我朝ニハ、土地ノ神、又太神宮トイヘドモ、御恩ノ爲ニ、五穀ノ出來、初穂ヤ或ハ神樂ナドヲ捧奉ルコトナレバ、兎角唐土トハ違有ト云リ、然ルニ汝、神ハ一列ノ如クニ云ヘルハ、如何ナルコトゾ、
新字:又問、或人云、子曰、非其鬼而祭之諂也、祭ベカラズトノ玉フ、我朝ニハ、土地ノ神、又太神宮トイヘドモ、御恩ノ為ニ、五穀ノ出来、初穂ヤ或ハ神楽ナドヲ捧奉ルコトナレバ、兎角唐土トハ違有ト云リ、然ルニ汝、神ハ一列ノ如クニ云ヘルハ、如何ナルコトゾ、
書き下し
又問、或人云、子曰、其の鬼に非ずして之を祭るは諂ひなりと、祭べからずとのたまふ。我朝には、土地の神、又太神宮といへども、御恩の為に、五穀の出来、初穂や或は神楽などを捧奉ることなれば、兎角唐土とは違有と云り。然るに汝、神は一列の如くに云へるは、如何なることぞ。
現代語訳
またある人が尋ねました。「ある人が言うには、孔子は『其の鬼に非ずして之を祭るは諂いなり』と、祭るべきでないものは祭るなとおっしゃった。わが国では、土地の神でも伊勢の太神宮でも、ご恩のために五穀の実りの初穂や神楽などを捧げるのだから、とにかく中国とは違いがある、と。それなのにあなたが神は一様であるかのように言うのは、どういうことですか。」
解説
段の後半は新しい問いで始まります。引用は『論語』為政篇の「其の鬼に非ずして之を祭るは諂いなり。義を見て為さざるは勇無きなり」。自分が祭るべきでない神を祭るのはへつらいだ、という孔子の言葉からすれば、日本人が誰でも伊勢神宮や土地の神に初穂や神楽を捧げるのは儒学に反するのではないか、という疑問です。儒学の原則と日本の習俗が衝突するように見える場面で、梅岩が両者をどう調停するかが次の答えの見どころになります。
この章句が説くこと
祭祀鬼神諂い初穂神道
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