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慎思録 / 巻之三

邵子曰。人之心。即天地之神。人之自欺。所以欺天地也。可不愼乎。邵子意謂。人心亦爲有天地之神。此與詩所謂上帝臨汝之意較異者。以在天與在人之異也。其實在天與在人無兩般。人心之神明。即天神之在我者。天地之神。與人心之神明。本自一般。只有體統與各具之分殊而已。故人之自欺。即欺天也。豈非可畏之甚乎。孟子曰。存其心養其性。所以事天也。葢吾心性。即是天之所賦予。在我之天也。存養於在我之天。與事上天。無二理無二事也。

新字:邵子曰。人之心。即天地之神。人之自欺。所以欺天地也。可不慎乎。邵子意謂。人心亦為有天地之神。此与詩所謂上帝臨汝之意較異者。以在天与在人之異也。其実在天与在人無両般。人心之神明。即天神之在我者。天地之神。与人心之神明。本自一般。只有体統与各具之分殊而已。故人之自欺。即欺天也。豈非可畏之甚乎。孟子曰。存其心養其性。所以事天也。葢吾心性。即是天之所賦予。在我之天也。存養於在我之天。与事上天。無二理無二事也。

書き下し

邵子曰く、人の心は、即ち天地の神なり。人の自ら欺くは、天地を欺く所以なり。慎まざるべけんや、と。邵子の意は、人心も亦天地の神有りと為すを謂ふ。此れ詩の所謂上帝汝に臨むの意と較々異なる者は、天に在ると人に在るとの異なるを以てなり。其の実は天に在ると人に在ると両般無し。人心の神明は、即ち天神の我に在る者なり。天地の神と、人心の神明とは、本自ら一般なり。只体統と各具との分殊有るのみ。故に人の自ら欺くは、即ち天を欺くなり。豈に畏るべきの甚しきに非ずや。孟子曰く、其の心を存し其の性を養ふは、天に事ふる所以なり、と。蓋し吾が心性は、即ち是れ天の賦予する所にして、我に在るの天なり。我に在るの天を存養すると、上天に事ふるとは、二理無く二事無きなり。

現代語訳

邵雍は「人の心は、すなわち天地の神である。人が自分を欺くのは、天地を欺くことである。慎まないでいられようか」と言いました。邵雍の意味は、人の心にも天地の神がある、ということです。これが『詩経』のいう「上帝があなたに臨んでいる」の意味と少し違うのは、天にあるのと人にあるのとの違いによります。しかし実際は、天にあるのと人にあるのとで二つの別のものはありません。人の心の神明は、天の神が自分の中にあるものです。天地の神と人の心の神明は、もともと同じものです。ただ全体としての統べと、一人一人に具わるものとの、分の違いがあるだけです。だから人が自分を欺くのは、そのまま天を欺くことなのです。なんと恐ろしいことではないでしょうか。孟子は「その心を保ちその性を養うのは、天に仕えるためである」と言いました。思うに、自分の心と性は天が与えたもので、自分の中にある天です。自分の中にある天を保ち養うことと、上なる天に仕えることとは、二つの理も二つの事もないのです。

解説

北宋の邵雍(康節)の言葉を手がかりに、心の中の神明と天地の神は一つだと説きます。「上帝汝に臨む」は『詩経』大雅・大明の句、「其の心を存し其の性を養ふは、天に事ふる所以なり」は『孟子』尽心上の言葉です。体統(全体)と各具(個々)の分殊という言い方は、朱子学の「理一分殊」「統体一太極・各具一太極」の考えに拠ります。自分を欺くことは誰も見ていなくても天を欺くことになるという考えは、『大学』の「其の意を誠にするとは、自ら欺く毋きなり」と重なり、誠実さの根拠を内側に置く教えです。

この章句が説くこと

自欺事天

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