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呻吟語 / 内篇・倫理・福を求むるは已に君子の心に非ず

郊社,報天地生成之大德也,然災沴有禳,順成有祈,君為私田則仁,民為公田則忠,不嫌於求福,不嫌於免禍。子孫之祭先祖,以追養繼孝也,自我祖父母以有此身也,曰:「賴先人之澤,以享其餘慶也。」曰:「吾朝夕奉養承歡,而一旦不復獻杯棬,心悲思而無寄,故祭薦以伸吾情也。」曰:「吾貧賤不足以供菽水,今鼎食而親不逮,心悲思而莫及,故祭薦以志吾悔也。」豈為其遊魂虛位能福我而求之哉?求福已非君子之心,而以一飯之設,數拜之勤,求福於先人,仁孝誠敬之心果如是乎?不謀利,不責報,不望其感激,雖在他人猶然,而況我先人乎?《詩》之祭必言福,而《楚茨》諸詩為尤甚,豈可為訓耶?吾獨有取於《采蘩》、《采蘋》二詩,盡物盡志,以達吾子孫之誠敬而已,他不及也。明乎此道,則天下萬事萬物皆盡我所當為,禍福利害皆聽其自至,人事脩而外慕之心息,向道專而作輟之念忘矣。何者?明於性分而無所冀悻也。

新字:郊社,報天地生成之大徳也,然災沴有禳,順成有祈,君為私田則仁,民為公田則忠,不嫌於求福,不嫌於免禍。子孫之祭先祖,以追養継孝也,自我祖父母以有此身也,曰:「頼先人之沢,以享其余慶也。」曰:「吾朝夕奉養承歓,而一旦不復献杯棬,心悲思而無寄,故祭薦以伸吾情也。」曰:「吾貧賤不足以供菽水,今鼎食而親不逮,心悲思而莫及,故祭薦以志吾悔也。」豈為其遊魂虚位能福我而求之哉?求福已非君子之心,而以一飯之設,数拝之勤,求福於先人,仁孝誠敬之心果如是乎?不謀利,不責報,不望其感激,雖在他人猶然,而況我先人乎?《詩》之祭必言福,而《楚茨》諸詩為尤甚,豈可為訓耶?吾独有取於《采蘩》、《采蘋》二詩,尽物尽志,以達吾子孫之誠敬而已,他不及也。明乎此道,則天下万事万物皆尽我所当為,禍福利害皆聴其自至,人事脩而外慕之心息,向道専而作輟之念忘矣。何者?明於性分而無所冀悻也。

書き下し

郊社は、天地生成の大德に報ゆるなり。然れども災沴には禳有り、順成には祈有り。君の私田を為すは則ち仁、民の公田を為すは則ち忠なり。福を求むるを嫌はず、禍を免るるを嫌はず。子孫の先祖を祭るは、追養繼孝を以てなり。我が祖父母より此の身有るなり。曰く、「先人の澤に賴りて、以て其の餘慶を享く」と。曰く、「吾朝夕奉養して歡を承けしに、一旦復た杯棬を獻ぜず、心悲思して寄する無し、故に祭薦して以て吾が情を伸ぶるなり」と。曰く、「吾貧賤にして菽水を供するに足らず、今鼎食するも親逮ばず、心悲思して及ぶ莫し、故に祭薦して以て吾が悔いを志すなり」と。豈に其の遊魂虛位の能く我を福せんが為に之を求めんや。福を求むるは已に君子の心に非ず。而して一飯の設、數拜の勤を以て、福を先人に求む、仁孝誠敬の心果たして是くのごとくならんや。利を謀らず、報を責めず、其の感激を望まず。他人に在りてすら猶ほ然り、而るに況んや我が先人をや。『詩』の祭は必ず福を言ふ、而して『楚茨』の諸詩を尤も甚だしと為す、豈に訓と為す可けんや。吾獨り『采蘩』『采蘋』の二詩に取る有り。物を盡くし志を盡くし、以て吾が子孫の誠敬を達するのみ、他は及ばざるなり。此の道に明らかならば、則ち天下の萬事萬物皆我の當に為すべき所を盡くし、禍福利害は皆其の自ら至るに聽す。人事脩まりて外慕の心息み、道に向かふこと專らにして作輟の念忘れん。何者ぞ。性分に明らかにして冀悻する所無ければなり。

現代語訳

天地を祭るのは、天地が生み育てる大きな徳に報いるためです。しかし災いには祓いがあり、実りには祈りがあります。君主が私田を耕すのは仁、民が公田を耕すのは忠です。福を求めるのを嫌わず、禍を免れるのを嫌いません。子孫が先祖を祭るのは、亡き後も養い孝を継ぐためです。祖父母があってこの身があるからです。ある人は言います。先人の恵みによってその余りの慶びを受けている、と。ある人は言います。私は朝夕仕えて喜びを受けていたのに、ある日から杯を捧げられなくなり、心は悲しみ思っても寄せるところがない、だから供えて自分の情を伸べるのだ、と。ある人は言います。私は貧しくて豆と水すら供えられず、今は立派な食事をしても親はもういない、心は悲しみ思っても届かない、だから供えて自分の悔いをしるすのだ、と。どうして魂や位牌が自分に福をもたらすからといって求めるでしょうか。福を求めるのは、すでに君子の心ではありません。一膳の供え物と数回の拝礼で、先人に福を求める。仁と孝と誠と敬の心が、本当にそのようなものでしょうか。利を計らず、報いを求めず、感激を望まない。他人に対してさえそうなのに、まして自分の先人に対してはなおさらです。詩経の祭りの詩は必ず福を言い、楚茨の諸詩がとりわけ甚だしい。どうして教えとできましょうか。私はただ采蘩と采蘋の二詩に取るところがあります。物を尽くし志を尽くして、我が子孫の誠と敬を届けるだけで、ほかには及びません。この道に明らかであれば、天下の万事万物すべて自分のなすべきことを尽くし、禍福も利害もみな自然に至るに任せます。人としての務めが修まって外を羨む心がやみ、道に向かうことが専一になって、やったりやめたりする思いも忘れます。なぜでしょうか。自分の分に明らかで、当てにするところがないからです。

解説

祖先の祭りの意味が問い直されます。福を求めるのは君子の心ではない、と言い切り、一膳の供え物で福を求める心を仁孝誠敬と呼べるかと問う。代わりに三つの動機が示されます。恵みを受けたという自覚、届けられなくなった悲しみ、間に合わなかった悔い。詩経の祭祀詩さえ福を言いすぎると批判し、物と志を尽くすだけの采蘩と采蘋を選ぶ。信仰を利害から切り離した一段です。

この章句が説くこと

祭祀動機詩経

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